相互誤解!―ジャパン・バッシングの起源と深層 1992/長山 靖生 (著) JICC出版局

親善とは名ばかりのペリーの略奪外交、日本人を首狩り族と同一視したイギリス人、西洋人にとって理想の日本人女性は「からゆきさん」コレラを外国からもたらされた災厄ととらえた明治の庶民…。黒船来航から日本が日米開戦という暴挙に走るまで、日本と欧米とのすれちがいの関係を検証する新鋭の力作。


いつか取り上げようと思っていた著者の古い本を見つけた。

盛りだくさんで各々核心に迫っていて見事である。
当時の風刺画、図表も多くタメになる。
装丁の為か、ポップな印象を与える本だが、内容は実に濃い。感心した。


まず何より凄いことは、私が再三取り上げている長崎事件が、なんと3ページも割かれ言及されていることである。
これは日本人が書いた本では異例である。
初めて見た。

 

tennkataihei.hatenablog.com

 

長崎事件の翌年1886年明治19年)には、ノルマントン号事件が起きている。

ノルマントン号事件(ノルマントンごうじけん、英語: Normanton Incident)とは、1886年明治19年)10月24日にイギリス船籍の貨物船、マダムソン・ベル汽船会社所有のノルマントン号が、紀州沖で座礁沈没した事から始まった紛争事件である。日本人乗客を見殺しにした疑いで船長の責任が問われたものの不問となり、船長らによる人種差別的行為と不平等条約による領事裁判権に対する国民的反発が沸き起こった。

 

その際、ジョン・ウイリアム・ドレーク(John William Drake)船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員26名は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助されて手厚く保護された。
ところが、日本人乗客25名は一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されてことごとく溺死した。


明治10年には、ヨーロッパから広まったコレラが外国人船員によって日本に持ち込まれ、大流行。
アモイ駐在の福島領事から、アモイ一帯でコレラが大流行し、それが日本に迫っていることが警告された。
なぜ、防げなかったかといえば、イギリス公使のパークスが船員の検疫を拒否したからである。
結果、10万人の死者がでた。


この本で特に感銘を受けたのは、273ページ~ 「教科書から消えた被差別」である。

「日本の教科書では差別は隠蔽される傾向にあるーーーといっても、朝鮮半島満洲での日本による差別のことではない。
こちらの方は不十分ながらいちおう記載されている。

問題なのは、日本が受けた差別のほうだ。

日本では昭和戦前期から欧米による対日差別が、義務教育の場で語られることはほとんどなかった。
思えば戦前の日本政府は多くのことを国民に隠蔽し続けてきた。
中略

しかし戦前日本が国民に隠蔽し続けた最大の秘密は、日本が欧米から差別を受けているという事実だった。
一等国をもって自認する大日本帝国としては、自国が差別の対象であった歴史的事実をそのまま少国民(!)に教えるわけにはいかなかったのである。

 


日本が真珠湾攻撃した理由。あるいは、シンガポール攻略を始めた理由。
表向きは南方の石油を求めてということになっているが、それだけではない。
そうでなければ、太宰治高村光太郎伊藤整ら日本の知識人が日記のなかで欣喜雀躍するというのはあり得ないことだろう。


昭和天皇は戦後の回想(昭和天皇独白録)の中で戦争の遠因として以下のように述べています。

「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。
日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。又青島還付を強いられたこと亦然りである。
かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」

 

人種偏見、差別の強い白いアメリカで黒人の次に日系米人は強い差別を受けていた。
大正13年5月31日 アメリカ大使館に隣接する空き地で割腹の自刃を遂げた無名の青年がいました。アメリカ国内では「反日機運」が強くなり、その年の4月に「排日移民法」が成立したことに対して、
「生きて永く貴国人に怨みを含むより、死して貴国より伝えられたる博愛の教義を研究し、聖基督の批判を仰ぎ、併せて聖基督により、貴国人民の反省を求め…」と遺書を残しアメリカに抗議しての自決でした。


主に反日バカサヨクたちがやっている「統帥権の干犯」なるもの。
非常に馬鹿馬鹿しいと私は感じている。

何かあの「過ちは繰り返しません、安らかにお眠りください」との原爆慰霊碑の碑文と似たようなもの、原因と結果を取り違えてる空しい努力であるような気してならない。

 

太平洋戦争の原因は、人種差別とブロック経済である。
異論は認めない。

 

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日本は、「東亜百年戦争」を戦ったのである。(「大東亜戦争肯定論」林房雄

日米は、まったく別の戦争をした…

アメリカ  → 人種差別戦争
大日本帝国 → 亜細亜解放戦争(聖戦)

 


明治5年(1872年)には、マリア・ルーズ号事件が起きている。

マリア・ルス号事件(マリア・ルスごうじけん)とは、日本の横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の清国人苦力を奴隷であるとして日本政府が解放した事件。日本が国際裁判の当事者となった初めての事例である。

 

事件の概要
1872年7月9日、清(中国)の壕鏡(マカオ)から南米西岸のペルーに向かっていたペルー船籍の(Maria Luz マリア・ルーズ)が、航海中の悪天候から帆先を破損、横浜港にこの修理のために入港した。同船には清国人(中国人)苦力231名が乗船していたが、過酷な待遇から逃れるために木麗(モクヒン)をはじめとする数人の清国人が監視の目を欺いて海中へ逃亡し、イギリス軍艦(アイアンデューク号)に救助を求めた。イギリスはマリア・ルスを「奴隷運搬船」と判断し、イギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。

当時の外務卿(外務大臣副島種臣は、神奈川県権令(県副知事)大江卓に清国人救助を命じた。日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかったため、政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は人道主義と日本の主権独立を主張した。

これにより大江の指揮で、林権典事と法律顧問の米国人ジョージ・ウォーレス・ヒルらによって、マリア・ルス船内の確認作業が進められた。船長ヘレロとの通訳をヒル顧問が担当、追究を重ねた後に、船底で食糧不足等で凄惨な状態となっていた清国人230人を発見した。

 

ロシア皇帝による国家間の仲裁

翌年2月にペルー政府は海軍大臣ガルシャを訪日させ、マリア・ルス問題に対して謝罪と損害賠償を日本政府に要求した。この両国間の紛争解決のために両国間で仲裁契約が結ばれ、両国同意のもとで第三国のロシア帝国による国際仲裁裁判が開催されることになった。ロシア皇帝・アレクサンドル2世によりサンクトペテルブルクで開かれた国際仲裁裁判には、日本側代表として全権公使の榎本武揚が出席。1875年(明治8年)6月に法廷は「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決を出し、ペルー側の要求を退けた。

旧暦7月27日に大江が下した判決は、後に有名になり「奴隷解放事件」と呼ばれた。

 

この事件に衝撃を受けた幕閣・阿部弘蔵によって日本奴隷史が書かれた。

日本奴隷史1996/阿部 弘臧 (著) 明石書店 原本は大正15年刊。

最近これを書くために再読したが、内容はありきたりというか、さして凄いものではない。
拍子抜けした。
それよりも、明治5年(1872年)に、マリア・ルーズ号事件が発生。日本奴隷史を書き上げたが、どこにも出版してくれるところがなく、息子の代(大正15年刊)にやっと出版されたという逸話が興味深い。


幕末の出来事だが、こういうのを教科書に載せて教えるべき ↓ いつ日本がなくなってたかもわからなかった。極めて危険な状態に日本が置かれてた。

 

【前編】ロシア軍艦対馬占領事件 文久元年2月3日(1861年3月14日)【ゆっくり解説】41,276 回視聴•2020/10/30 

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ゆっくり日本の闇【しくじれば日露戦争で負け】 ロシア軍艦対馬占領事件(別名:ポサドニック号事件)
日本海の要衝、対馬列島。その有利な地理を巡って、ロシア、イギリス、日本の思惑が絡まり合う。。。
ロシアに対馬が占領される事件が発生。
ぞくぞくと海軍基地や工場を建設し、居座るロシアに江戸幕府が対処することはできるのか?

 

「北海道 ガルトネル開墾条約事件」 

ガルトネル開墾条約事件、あるいはガルトネル事件は、日本の幕末から明治時代最初期にかけ、函館(当時、箱館)における開墾地租借契約をめぐりプロイセン貿易商との間で発生した外交事件である。

その後、開拓長官となった東久世通禧  (前述の清水谷公考と同様に公家 
 出身者であり、実質的には開拓次官 となった黒田清隆が中心となった) と、ドイツ帝国 ガルトネル商会との厳しい交渉がおこなわれた結果、 
 明治3年(1870年)11月に62,500両の 賠償金を支払うことで契約を解消した

 

↑幕府の不始末を明治新政府が肩代わりして処理してる。こういうのを教科書に載せてちゃんと教えるべき。いつ日本がなくなってたかもわからなかった。極めて危険な状態に日本が置かれてた。あなたたちが家でくつろいでビールを飲みながらポテトチップスや刺身などゆっくり食えるのも、こういう難局にきちんと交渉してくれた先人がいたからこそ。