長崎清国水兵争闘事件「再考」 明治19年。 それは、明治の「元寇」だった!
2023-05-26
司馬遼太郎の歴史観―その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う 2009/中塚 明 (著)高文研 3つの司馬史観批判について。
それから、反日バカ左翼のこのテーマの本、30冊ばかり読んでいるが、一つの重大なポイントに気が付いた。
反日バカ左翼は、いつも日清戦争を取り上げる際、けっして「長崎事件」には触れないということ。
長崎事件は全く知られていないが、1886年(明治19)その当時、清帝国と呼ばれた中国の北洋艦隊が突如長崎に来襲し、 水兵の大集団が大暴動を起こした侵略事件だ。
↑……と書いて、「司馬遼太郎の歴史観―その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う 2009/中塚 明」を取り上げたわけだが、その後、本論考でも触れた「長崎清国水兵争闘事件」を検索していて、余りにもヒット数が少ないということに衝撃を受けた。
原因があるから結果がある。
日清戦争に関しては、原因は長崎清国水兵争闘事件だ。はっきりしてる。
その根本のそもそもの原因がおざなりにされてる現状を深く憂いてこれを書く。
参考文献といえばなんとひとつもなく、
参考論文といっても以下のたった2つしか書かれていないという惨状!!
安岡昭男「明治十九年長崎清国水兵争闘事件」法政大学文学部紀要36、1990年
朝井佐智子「清国北洋艦隊来航とその影響」愛知淑徳大学現代社会研究科研究報告4、2009年
たまたま手元にある図書館から借りてきたズバリ、日清戦争論 ─ 日本近代を考える足場 ─ (〝本の泉社〟転換期から学ぶ歴史書シリーズ) 2020/原田 敬一 (著)には見たところ、タイトルに日清戦争と名乗っておきながら長崎事件のなの字もないという惨状!!
過日、百田尚樹氏の「日本国記」を読んで、救国の英雄・北条時宗が無視されている現況の「GHQ洗脳日本サヨク教育」に対して大いに義憤を感じたことを想起する。
長崎事件1
日清戦争前夜、清は旅順に要塞と軍港を作り,北洋艦隊(李鴻章)の根拠地にしていた。
1886年8月1日,北洋艦隊の新鋭戦艦「定遠」「鎮遠」と巡洋艦「済遠」「威遠」の4隻が,日本政府には何ら予告なく,無許可で修理のためと称して突然,長崎に入港。
艦名の「遠」は外国,特に日本をさし、「定遠」「鎮遠」は日本鎮定の意味。
(ドイツ製で,排水量7,400t,当時世界最大の戦艦だった。ちなみに現在の日本のイージス艦あたご7700t)
日本海軍はイギリス製の「浪速」と「高千穂」(3000t)の小艦があるだけ。当時の日本海軍は、中国主力艦『鎮遠』、『定遠』の2装甲艦にまったく立ち向かうことができない実力であり、戦争など思いもよらないことだった。
8月13日には中国水兵が勝手に上陸開始。兵力は500人以上。
長崎市内をのし回り,商店に押し入って金品を強奪しました。酒を探して飲み,
市民の女性を追いかけるなど,散々に暴れ狂った。
長崎事件2
急報により,日本人巡査が鎮圧に出動したが,多勢に無勢,袋だたきにあう。
やがて応援の巡査の一隊が駆けつけ,双方抜刀して市街戦になった。
斬り合いの結果,双方とも八十数人の死傷者を出した(中国水兵4人、巡査2人が死亡)。
その後、中国水兵は続々と200人ほども集まり、
つかまった仲間を助け出そうとして警察署の門前に押しかけた。
警察署も門を閉ざして警備を厳重にしたため、その日の水兵たちは引き上げた。
8月14日、上陸した中国兵の一部は骨董店などで古刀や古武器を購入、
これを日本に住んでいた中国人に預けて、翌日の騒動に備えていた。
上陸にあたっては武器の携行が許可されていなかったためだ。
日本に住んでいた中国人が内通して襲撃に加わったという情報もある
長崎事件3
8月15日、清国水兵数人が交番の前でわざと放尿した。
交番の巡査が注意すると、彼らはその巡査を袋叩きにした。
これを見ていた長崎市民が激昂し、清国水兵に殴りかかった。
すると、清国水兵の一団が加勢し大乱闘となった。
そして、止めに入った警察官と清国水兵が斬り合う事態に発展し、それぞれ死傷者を出した。
夜になって、仕返しをしようとして300人ばかりの水兵が数十人ずつ隊をなして上陸、
広馬場町の飲食店にたむろして、一部が通りかかった巡査を侮辱して挑発、
周辺の飲食店などにたむろしていた刃物や仕込杖で武装する水兵たちが、
3人の巡査によってたかっての暴行を加えた。
3人の巡査は、一人がその場で死亡、二人が重傷を負い、
うち一人がかろうじて囲みを破って、付近の警察署に危急を告げた。
ここから騒ぎはさらに大きくなり、水兵たちは80人ほどが一隊となって
梅ヶ崎や濱野の警察署へ押し寄せようとし、道すがら通りかかりの住民へも暴行を加えた。
巡査たちは道路を大八車で遮断し、水兵たちを迎え撃つ。
道端の家々も門戸を閉ざすと、住民は石を持って屋根に上がり、石や瓦を投げて水兵たちを攻撃した。
負傷者が続出すると、もともと大半が酩酊している水兵たちは総崩れとなり、
追い散らされて、一部は逮捕された。
これにより、中国人士官1名が死亡、3名が負傷、水兵も3人が死亡、50人余りが負傷した。
日本の警察も警部3名が負傷し、巡査2名が死亡、16人が負傷し、住民にも十数名の負傷者が出た。
この長崎事件は当時、日本全国に一大ショックを与え、中国に対する日本人の敵愾心が、烈火のように燃え上がった。
「長崎事件」後日談
長崎事件を起こした敵国のシンボルである中国北洋艦隊の定遠は,
日清戦争の黄海海戦で火災を起こし,軍港の威海衛に退避。
日本海軍は水雷艇による夜襲(夜間の魚雷攻撃)を爆沈。
「定遠」に乗っていたイギリス人軍事顧問によれば,
日本の水雷艇が距離二百メートルに接近して始めて攻撃に気付いたときには
「定遠」は魚雷によって艦が傾き、ようやく浅瀬に乗り上げて転覆を免れたという。
「定遠」の装甲鉄板だった門扉が太宰府天満宮に残っている。
中国北洋艦隊といいながら、艦隊顧問はイギリス人、威海衛の軍港建設の指導はドイツ人。
中国軍といいながら、その実、イギリス、ドイツなど西洋諸国が多数加担。
日清戦争は,西洋の列強が中国の戦力を利用して行った日本侵略を阻止し、
さらには朝鮮から南下してくるロシアとの国境線を画定させるための防衛戦争だった。
西洋の列強の侵略戦争を勝ち抜くために多くの国民の命が犠牲に。
もし,日清戦争に負けていれば,今頃は,確実に中国の属国として中国語をしゃべっている。
この長崎事件は当時、日本全国に一大ショックを与え、清国に対する日本人の敵愾心が、烈火のように燃え上がりました。
この事件の背景には、朝鮮問題を巡る日清両国の紛争がありました。
そこで日本を脅かすため、清国海軍が計画的に長崎に殴り込みをかけたのです。
当時の弱小国、日本は歯噛みしながら、なす術もなかったのです。
李鴻章は日本に謝罪するどころか、 日本との戦争も辞さずという強硬な態度を取る。
日本政府はその圧力に屈し、賠償金を払い日本側関係者の処罰まで行う。
事件後、日清両国は長崎においては英仏人弁護士の加わった会弁委員会で、また東京では井上馨外相と徐承祖駐日公使により交渉が行われ、
最終的には英独公使などの斡旋を経て妥結した。
その内容は事件の当事者については所属国の法律により処分、また撫恤料として日本からは52500円、清国から15500円を支出するというものであった。
これは出来レース、はじめから日本に因縁ふっかけるつもりで連中は日本に来ていた。
なぜこのような理不尽な処理をしたかというと、当時の清国の兵力108万4千人に対して日本は7万8千人であり、
もしこの事件がきっかけで戦争になったら簡単に東京を制圧され、九州を取られていただろうと予測されていた為だ。
事件の後、日本人はプッツン切れた。あのクリスチャンの内村鑑三でさえ、
「文明国として不実のシナに対しては鉄血を以って正義を求めるしかない永久平和の為に戦え」と言ったほど
そして日本は軍備増強を行い、8年後、清国を打ち破るのであった。
この長崎事件を契機として、日本人の防衛思想の根底に、大陸を国防の第一線とする考え方が生まれたのです。
「1891年、明治24年、再び北洋艦隊は今度は横浜へ入港する。
作家・石原慎太郎は正宗白鳥が握り飯を持って横浜港まで北洋艦隊を見物に出かけたことを書いている。
北洋艦隊の来航は日本人にとって、清国に対する意識を大転換させるきっかけとなった未曾有の事件であった。
日清戦争開戦への世論が整う条件として、様々なものが考えられるが、少なくともその一つに北洋艦隊の来航が考えられるのではないだろうか。それ程、当時の日本人に大きな衝撃を与える事件であったのである。」
朝井佐智子「清国北洋艦隊来航とその影響」愛知淑徳大学現代社会研究科研究報告4、2009年。
朝井氏の論考はわずか16ページだが、内容豊富で福沢諭吉や右翼団体・玄洋社への影響など盛りだくさんなので読まれることをすすめる。
日清戦争は完全な自衛戦争…
勝てる体制になるまで8年かかってる、臥薪嘗胆の8年だ
忌々しい反日売国バカサヨクの歴史観にはこの歴史認識(長崎事件)が抜けてる
無垢なる中国に一方的に悪いことした… アホか
併せて読みたい
支那事変と日清戦争(校註) GHQ焚書 (いざなみ文庫) Kindle版小泉信三 (著), いざなみ文庫 (編集)
【GHQ焚書第11段】小泉信三『支那事變と日淸戰爭』(慶應出版社、昭和12)の電子復刻版。支那事変勃発の年に書かれた全3篇の文章を収録。内容は全て日清戦争当時の福沢諭吉翁を回顧したものとなつてゐる。朝鮮の惨状に同情し、その近代化に助力を惜しまなかつた福沢翁だが、朝鮮近代化の妨碍勢力であつた清国や朝鮮の守旧派に対しては寸毫も容赦なかつた福沢翁の一面とその背景を窺ふことができる一書。本書も戦後GHQによつて焚書された。