両大国間の"自由貿易"時代に、なぜか日本に集中した「貿易差別」の実態を初めて明かした問題提起の書。 「対日経済封鎖」(池田美智子)日本経済新聞社1992 (日本経済新聞出版)

「不公正な貿易国」「不可解な日本人」-対日非難の十字砲火の中で、日本は何を考え、どう対応したか。
両大国間の"自由貿易"時代に、なぜか日本に集中した貿易差別の実態を初めて明かした問題提起の書。

 

1000パーセント、欧米がわるい…

スムート・ホーリー法(スムート・ホーリーほう、Smoot-Hawley Tariff Act)は、
ホーリー・スムート法(Hawley-Smoot Tariff Act)の名でも知られ、アメリカが1930年6月17日に成立した関税に関する法律であり、
20,000品目以上の輸入品に関するアメリカの関税を記録的な高さに引き上げた。多くの国は米国の商品に高い関税率をかけて報復し、
アメリカの輸出入は半分以下に落ち込んだ。一部の経済学者と歴史家はこの関税法大恐慌の深刻さを拡大した、あるいはそれ自体を引き起こしたと主張している。

 

1000パーセント、欧米がわるいにもかかわらず…
開き直って、ブレトンウッズ体制とかを構築して自由貿易を旗印にしたのはよかったが、奴らに反省がないのが欠点…


今後の世界の発展と人類の福祉の向上を願うことは私達すべての願いである。
今日までの世界経済の発展をかえりみれば,現在の開発途上国の経済発展は,この願いの実現化を大きく左右するものである。
その観点から,一つのアプローチが浮かびあがる。
世界経済の発展は,歴史的に比べた(相対的な)経済後発国の「追いつき」過程でもある。ある相対的後進国がその先進国に「追いついて」世界市場に参入して行くとき,そこには先進国の国際的産業分野での貿易摩擦が生じる。

 

1926年から1937年にかけて,当時の開発途上国の先頭をきっていたのは日本であった。
当時の日本を焦点として,世界中が,壮大な苛酷な保護主義の実験をした歴史がある。

当時は,それまでの世界の秩序の中心的役割を担っていた大英帝国の権力が相対的に衰え,世界のリーダーシップが米国へと移っていった時期である。
日本は西欧先進諸国に「追いつく」努力を重ね,世界市場へ参入し,その競争によって,古い世界秩序の破壊に拍車をかけた。

 

世界大恐慌が深まり,世界貿易がどん底へと沈みゆき,保護主義が世界を覆いつつあった頃,日本経済の回復力は速く,各先進諸国と比較して輸出が伸びた。
日本は,先ず中国市場から追われ,対米輸出はこの期間に半滅した。

 

大英帝国では,帝国特恵が強化され,カナダ,英領印度,オーストラリア市場と,次第に日本の輸出は厳しく制限され,交渉の末に結んだ新通商条約はすべて日本の譲歩を強めていくぽかりであった。ついで,蘭領印度,中近東,アフリカ,最後にラテン・アメリカ市場と,次々に対日貿易差別が公然化した。


これが当時の後発国日本をして,死にもの狂いの第二次世界大戦へやがて参戦する一つの要因となった。

92.11.13「対日経済封鎖」と今日の世界 池田美智子(東海大学政治経済学部教授)


>日本人がプライドをもって戦ったからこそ国内外に変化が起こった。 それは何か? 

 

 戦前の日本の経済力は世界5位か6位だった。 
 戦後は世界第2位の経済大国にまでなった。  それはどうしてか? 
 それはプライドをかけて戦った先人達からの贈り物なのである。 
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 日本が第二次大戦で植民地を解放するきっかけを作った。 
 連合国は日本を「侵略者」にして丸く収めたつもりだったが、 
 植民地に戻ってきたヨーロッパの国々が、現地住民との間で独立を巡って激しい戦いを
 する事となった時、世界は本当の侵略者を再確認したのである。 

 アメリカはその事を敏感に察知し、植民地の独立は止むを得ないとしてガット体制(自由貿易)を構築して、  ヨーロッパに植民地の独立を認めるように迫った。 
 ガット体制(自由貿易)にすれば植民地を持っていなくとも 
 自由にどこからでも原材料を調達する事が出来、またどこの市場でも商品を売る事が出来る。  日本はそのガット体制(自由貿易体制)でもの凄い恩恵を受け経済大国になれた。  日本が経済大国になれた根本原因を探るとこれに到達する。 

 

有色人種が「人間」であることが認められたのは大東亜戦争が人種解放戦争だったからだ!
先人の偉業に感謝…  
靖国神社にいきましょう!!