東京裁判の謎を解く―極東国際軍事裁判の基礎知識 2007/別宮 暖朗 (著), 兵頭 二十八 (著)光人社

中国はなぜ日本の戦争責任を叫ぶのか。満州事変、支那事変、大東亜戦争は、日本の侵略戦争だったのか。知っておきたい大東亜戦争の最終局面を、19分類77項目でわかりやすく呈示する戦争裁判の真実。東京裁判の誤謬を正し、日本の未来に示唆を与える再生の書。


ご両人とも、昔から好きな著者である。
人間群像として非常に読み応えがある。
皆それぞれに興味深いが特に重光葵を取り上げたい。


★戦艦ミズーリでの降伏調印に出席した外務大臣重光葵が義足だったのはご存知ですか??
 朝鮮人テロリストの爆弾で失ったのです!! 白川大将は即死!!

1932年(昭和7年)4月29日、上海虹口公園での天長節祝賀式典において
朝鮮独立運動家・尹奉吉の爆弾攻撃に 遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件

1932年(昭和7年)1月、上海事変が起き重光は欧米諸国の協力の元、中国との停戦交渉を行う。
何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月29日、
上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮独立運動家・尹奉吉の爆弾投てきに遭い重傷を負う

重光は激痛の中「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかざる羽目に陥るべし」と語り、事件の7日後の5月5日、右脚切断手術


あまり知られてなくて超重要なこと。闘いの終わった後も闘いは続いていたんだなあ…。

 

【歴史】朝鮮人の投げた爆弾で右脚切断の大怪我を負った重光葵の直談判がなければ日本はGHQに植民地化されていた 

 

★:2015/11/26(木) 戦後日本を占領したGHQは、占領下においても日本の主権を認めるとしたポツダム宣言を反故にし、 行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く方針を示した。公用語も英語にするとした。 
それを受け入れることは「日本国家の消滅」を意味する。 

  外務省官僚として、そして外相として戦中戦後の外交を担った重光葵(まもる)は、 マッカーサーを相手に一歩も引かずその方針を覆させ、日本を救った。 
 重光は1945年9月2日、東京湾に停泊するミズーリ艦上で連合国の降伏文書に調印した。  「明治以降で最も偉大な外交官のひとり」とされる重光の交渉術について、 
 作家で歴史資料収集家の福冨健一氏が解説する。 
  * * * 
  敗戦直後、東久邇宮内閣の外相となった重光は冒頭のように日本政府全権として降伏文書に調印しました。 

  ホテルに戻り、義足(※注)を外し一息ついていると重大な話が舞い込みました。 
 連合国総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーが日本に軍政を敷くとの急な知らせでした。 

占領軍の布告第一号は、「行政、司法、立法の三権を含む日本帝国政府の一切の権能は、  本官(マッカーサー)の権力下に行使せらるるものとす。英語を公用語とす」という強硬なものでした。 

  日本政府は直ちに臨時閣議を開き、布告が中止されるよう働きかけることを確認。 
これを受け、重光は岡崎勝男・終戦連絡中央事務局長官と直接、マッカーサーのもとを訪れます。 

  GHQの最高司令官に対峙した重光は、 
 「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」 
 「ドイツと日本は違う。 
ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求します。 
http://www.news-postseven.com/archives/20151126_361534.html 
http://www.news-postseven.com/archives/20151126_361534.html?PAGE=2 

「連合国の意図は日本を破壊し奴隷化することではない」 
と説明するマッカーサー相手に一歩も引かず、ポツダム宣言の忠実な履行を決意し 
平和を望まれる天皇陛下のご意思を伝え、怯むことなく交渉を続けました。 

 

粘り強い説得に、マッカーサーもついに「貴下の主張は了解せり」と布告を取り下げる約束をします。 
その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となりました。 

  重光の直談判がなければ日本はGHQによって植民地化され、日本政府は機能を失い、 皇室など日本の文化は破壊されていたはずです。命懸けの交渉が日本を破滅から救ったのです。 

  敵にすればこれほど厄介な外相はいません。GHQ東京裁判で重光をA級戦犯として起訴しました。 
 無罪を予想する大方の予想に反し、下ったのは禁固7年の有罪判決。 
まさに彼は「連合軍に最も恐れられた男」だったのです。 

4年7か月に及ぶ服役後、仮釈放された重光は鳩山一郎内閣で4度目の外相を務め、 
ダレス米国務長官と会談して日米安全保障条約改正交渉のさきがけとなり、 
 軽武装・経済重視の吉田ドクトリンに対抗して再武装を主張し、 
 国家として当然の安全保障体制を追い求めました。 


 傲岸多弁の裁判長といわれ、天皇の責任追及に熱心であったオーストラリアのウェッブ裁判長は、ディヴィッド・バーガミニ (DavidBergamini)の『天皇の陰謀』(Japan’sImperialConspiracy)という本に序文を寄せてこう述べている。 

 「私が東京で判事席に座っていた30ヶ月の間に私は証人たちの日本君主に対する懸念と崇敬の念と、天皇の立場を説明する際の 熱心さと厳正さにしばしば打たれた。私は日本が1941年に戦争に訴えたことを非難するいかなる権利をもっているのかと自問することが時折あった。私は日本が9千万人の住む小さな土地で耕作できる面積はそのうち15パーセントにすぎず、 外部から激しい貿易制限や規制を受けていたとの弁護士の論述に多くの正論と酌量の余地を認めた。私は米国なり英国なりが同じ様な状況におかれたらどのように反応したか、それどころか国民がどのような反応をすることを望んだかを考えてみた。 

 米国も英国も日本が1941年におかれたような状況におかれれば、戦争に訴えていたかも知れないのである。」 
 日本の大東亜戦争が決して侵略戦争でなかったということを、このような文章ではっきり表現しているのである。 


 東京裁判史観シンドローム 
昭和58年5月、講談社が実質的な主催者となって、長編記録映画『東京裁判』が公開されたのを機に 2日間にわたる国際シンポジュームが開かれた。 
このシンポジュームに参加したのは、オランダ代表判事レーリンク博士、西独ルール大学々長イプセン博士はじめ、 
 米マサチューセッツ大学マイニア教授、ロンドン大学ジョン・プリチャード教授、ソ連のルニョフ教授、ビルマのタン・トゥン教授、 
 韓国ソウル大学白忠鉉教授、中国南開大学愈惇惇教授、その他東京裁判の弁護人ファーネス氏、補佐弁護人瀧川政次郎博士等々、 
そうそうたるメンバーで、日本の司会者は細谷千博(一橋大名誉教授)、安藤仁介(神戸大教授)大沼保昭(東大助教授)の三氏、 
その他に児島襄、栗屋憲太郎、秦郁彦鶴見俊輔木下順二家永三郎氏らがパネラーとして発言した。 

 

この国際シンポジュームは、東京裁判の違法性を公然と批判した点で画期的意義をもつものであった。 
イプセン博士は、「侵略戦争第二次世界大戦当時、そして現在でも、国際法上の“犯罪”とはされていない。 
 不戦条約の起草者たる米国務長官ケロッグは、戦争が自衛的か侵攻的かは関係各国が自ら決定すべき事項で、 裁判所等がにんていすべきものでない」と言明し、さらに「東京裁判以後の推移をみても、遺憾ながら東京裁判が裁いた法は、 
 条約法によって再認識されてもないし、慣習法に発達させられてもいない。大多数の国家は現在でも、 国際法上の犯罪に対する個人責任を認める用意ができていない」と述べた。 

マイニア教授は「東京裁判は単に正義の戯画化であっただけではなく、20年後ベトナム戦争への誤りの道を開いた」と指摘した。 

 

レーリンク博士は「インドのパール博士の主張に私は当時から敬意を抱いていた」と述べ、「日本が行った戦争は、アジアを西欧列強の 植民地支配から解放するためのものであって、犯罪としての侵略戦争ではない」と語った。 
そして日本側の提出した証拠はほとんど却下され、裁判は不当・不公正なものであったと述べた。 

 

2023-02-27https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/02/27/083027
敗戦は罪なのか オランダ判事レーリンクの東京裁判日記 三井 美奈 2021 産経新聞出版 “第2のパル"が見た日本人と「勝者の裁判」
まさにタイトル通り。インドのパル判事に次ぐ東京裁判判事団の叛乱である。
ただパル判事の場合は被告全員無罪であったものがレーリングの場合はかなり違う。


我が国の戦後社会では「ハル・ノートを受け入れても開戦すべきではなかった」という人たちがいる。 
そうしていたら300万人の犠牲も、全土を焦土とすることもなく済んだ、というのである。 
当時の世界の経済機構はブロック経済である。各国の経済活動は自らが支配する経済圏を基盤になされていた。 
もし我が国がハル・ノートを受け入れてたら、どうなっていたであろうか。 

資源もない日本で、原料輸入にも製品輸出にも、食料輸入すらにも不自由するブロック経済機構を背景にくらさねばならないのである。 
腰をかがめて貧しい生活に耐えていくか、不満分子が暴発するか、暴力革命でも起こってソ連の手下になったか、いずれにしても社会的混乱は避けられなかったであろう。 

社会主義国にでもなっていたら、その過程で幾百万の生命が絶たれ、幾千万が収容所に送られたか想像もつかない。

 
大東亜戦争の結果、アジア植民地の19世紀的構造は破壊された。それは欧州のブロック経済機構の崩壊を意味する。 
勝利した連合国すら世界経済機構へ進まざるを得なくなったのである。 
我が国は、食料輸入も原材料輸入も、そして製品輸出も可能になった。 
我が国の世界第二の経済大国への道は、その世界経済機構を基盤に開けた。 
300万人の犠牲も、全土を焦土にしたことも、決して無駄のみとは切り捨てられないのである。 

「戦争に負けてよかった。そのために現在の世界第ニの経済大国ができた」などという者がいる。 
思わざるも甚だしい。負けたから経済大国が出現したのではない。 
経済大国が出来たのは、陸軍を主体とした南方作戦に勝ったからである。 
それがブロック経済機構を破壊して、世界経済機構に移行せしめたからである。 

 『帝国海軍「失敗」の研究』 佐藤晃 芙蓉書房出版 2000/8/1

 

見事な分析である。これに付け加えて、マッカーサーの胸中を推察したい。
マッカーサーは厚木に降り立ったときから、とにかく、相当ビビっていたに違いないと思う。
マッカーサーは厚木に降り立ったとき、失禁していた」(高山正之氏エッセイ)

 

バターン死の行進なども、いつの間にか、日本軍が悪いということになってるが、もとはと言えば、マッカーサーコレヒドールの戦闘を放棄して自分だけで逃げ出したことに由来する。
オキナワ(バックナー中将爆死)、カミカゼ硫黄島、タラワ……。

キチガイじみた戦いぶりの、昭和天皇は何といっても最高司令官様である。
キル・ジョンウンか臭菌平を数等倍上回る悪魔キャラを想像してたに違いない。
ところが、昭和天皇に会ってみて……。
混乱して信じられなかったに違いない。

 

本来は日本が無条件降伏した場合、4か国分断統治されて、 
主権を失い、天皇を処刑されて、皇室を解体されて、植民地になっていことは間違いない。 
本気で硫黄島の時点で降伏してればとか言ってるバカがいることに驚く。

硫黄島と沖縄での日本軍の奮戦がなかったら 特攻作戦が行われなかったら 原爆が投下されなかったら 池田戦車隊がソ連軍を撃退しなかったら 
 アジア諸国の首脳が日本を擁護してくれなかったら、 
 マッカーサーが統治者でなかったら、
重光葵(この人特に重要、マッカーサーは当初、軍政を敷こうとした、重光が体を張って阻止)がGHQに対抗しなかったら、 
あらゆる奇跡と努力によって平和な日本があるだけなんだよ。


日本は、「東亜百年戦争」を戦ったのである。(「大東亜戦争肯定論」林房雄

日米は、まったく別の戦争をした…

アメリカ  → 人種差別戦争
大日本帝国 → 亜細亜解放戦争(聖戦)


米兵がお土産として家族や恋人に送った日本兵の頭蓋骨(1944年5月22日の「ライフ」誌掲載)。
アリゾナ州フェニックスの軍需工場労働者ナタリー・ニッカーソン(20歳)が、ボーイフレンドから贈られた日本兵頭蓋骨のお礼の手紙を書いている。 戦利品の日本兵頭蓋骨を送られた恋人 (タイム誌)
http://www.aubetec.com/~rimbaud/blog/WindowsLiveWriter/df849f3ccc27_EA1D/skull%5B4%5D.jpg 
”Arizona war worker writes her Navy boyfriend a thank-you note for the Jap 
skull he sent her” 
http://blog-imgs-47.fc2.com/r/y/u/ryuma681/20130211040403252.jpg

 


大正13年5月31日 アメリカ大使館に隣接する空き地で割腹の自刃を遂げた無名の青年がいました。
アメリカ国内では「反日機運」が強くなり、その年の4月に「排日移民法」が成立したことに対して、「生きて永く貴国人に怨みを含むより、死して貴国より伝えられたる博愛の教義を研究し、聖基督の批判を仰ぎ、併せて聖基督により、貴国人民の反省を求め…」と遺書を残しアメリカに抗議しての自決でした。 
 

有色人種(全アジア人)が「人間」であることが認められたのは、
大東亜戦争が人種解放戦争だったからだ !
先人の偉業に感謝…  
靖国神社にいきましょう。


↓おごり高ぶった白人種を象徴する発言!!

 

2章の92
火焔、天から地上へ黄金色が見える
やられることのない高みからうち落とされて、驚くべき大惨事が起きる
大きな爆弾「リトルボーイ」に襲われた人間の大殺戮
壮絶極まりない死、高慢な人が羽目をはずす


ノストラダムスは凄い。凄すぎる。
高慢な人が羽目を外すというのは、このことを言ってる?↓

 

トルーマン回想録」は次のように記している。 
"Japanese are beast. So are treated as"(「日本人は獣だ。だから、そのように扱った」) 
 トルーマン米大統領は2日、CBSテレビ放送番組「今だから話そう」の対談に出演し、 「私は広島・長崎の原爆攻撃を指令したあとに、良心のとがめを少しも感じなかった。 これからも万一の場合、水爆使用はたしかだ」と語った。 

(彼はこのときポール牧のようにぱちんと指を鳴らした)


日本軍は驚くほど馬鹿正直に戦ったのではないか?
沖縄では10万人の死亡者がでた。
だが、すべてはアメリカ軍が悪い。あらかじめ、一般市民は避難してくださいと一言があるべきだったろう。
南京で松井大将が行ったような、一般市民は避難してくださいとの布告があるべきだったであろう。

リンドバーグ第二次世界大戦参戦記を読むたびに痛感することだが、
当時のアメリカ白人にとってみれば、日本人とは、イースト・インディアンもしくは間違いなく「猿」そのものだったのではないか?

同じ人類とは思っていなかったのは間違いない。


米国の従軍記者だったエドガー・L・ジョーンズは、連合軍の犯罪について以下のように述べている。

「我々は冷酷にも捕虜を射殺し、病院を跡形もなく破壊し、敵の救命筏に対して機銃掃射を加え、一般市民を殺害し、虐待した。
そして、敵の負傷兵を皆殺しにし、瀕死だがまだ息のある者をほかの死体と一緒に穴に放り込んで埋めたのだ。
太平洋戦線では、ガールフレンドへのプレゼントにするため、死んだ日本兵の頭を茹でて肉を削ぎ落とし、その頭蓋骨をテーブルに飾る装飾品とし、またはその骨を削ってレターオープナーにしている。
我々は日本兵の肉体を切り刻み、その耳を切り取り、あげくの果てには金歯を抜き取って「土産もの」とした。
そんな目を覆うような悪行がどういう戦場心理によるものなのか、
ということは未だに全く検討すらされていない」


「翼よ、あれがパリの灯だ」で有名な初の大西洋横断飛行の 
 チャールズ・A・リンドバーグ氏が従軍した時の日記(記録)リンドバーグ著・『第二次大戦日記』新潮社より 

 

1944年6月21日(水) 
 偵察隊の一人が日本兵”捕虜”に煙草と火を与えた。 
 煙草を吸い始めた途端に日本兵”捕虜”の頭部に腕が巻きつき、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。 

 

1944年6月26日(月) 
ニューギニア戦線で2000人の日本人捕虜を飛行場に連れて行き、機関銃を乱射して殺害しました。 

 

日本兵の死体に金歯があると、靴で踏み付けたり、棒でつついてその歯を取り出して集めて、小さい袋にため込んでいる兵士が何人もいる。砲弾で出来た穴の中に日本兵の死体を投げ込む。
その上をゴミ捨て場にする例もある。 
死体処理はブルドーザーでなされ、墓標がたてられることは、けっしてない」 

 

「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなった時の話を覚えているかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ 捕虜を機上から山中に突き落とし、
ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」

リンドバーグ日記八月六日)

 

関連:【外交】慰安婦問題「おぞましい人権侵害」=米オバマ大統領、米韓首脳会談後の記者会見で [4/25] ★3

 

日記は次の一節で終わっている。
 「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、我々は太平洋で日本人に行ってきたのである。ドイツ人が人間の灰で穴を埋めることで自らを穢したと同じように、我々も又ブルドーザーで遺体を浚い、墓標もない熱帯地の穴に放り込むことにより自らを穢したのである。地球の片側で行われた蛮行はその反対側で行われても、蛮行であることには変わりがない。」

 

硫黄島の滑走路の下の日本兵の遺骨も  ゴミと一緒に埋められてるから  


併せて読みたい

 

孤高の鷲―リンドバーグ第二次大戦参戦記 学研M文庫 
チャールズ リンドバーグ (著), Charles A. Lindbergh (原著), 新庄 哲夫 (翻訳) 
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4059011150/249-7534127-5484316