満洲国建国の正当性を弁護する 2016/ジョージ・ブロンソン リー (著), George Bronson Rea (原名), 田中 秀雄 (翻訳)草思社

それは中国の民主化の最初の試みであった。定見なき米国外交、列強が結んだ諸条約の欺瞞を鋭く批判し、驚くべき精度で戦後世界を予測。1935年に書かれた満洲国建国史の最重要資料。


以前少し触れたが、今回再読してみてこれは驚くべき本だと再認識した。

改めて取り上げたい。

 

本書は、満洲国建国3年後の1935年に出版された原書タイトル「満洲国弁護論」の訳本である。
著者ブロンソン・リーは、米国人技師であったが、米国新聞社の特派員として、1898年、米西戦争により、米国がキューバ、フィリピンを獲得する手法を観察した。リーは、極東に30年以上滞在した技師でジャーナリストである。

この間、第一次大戦では米国陸軍情報部大尉を務めた。東洋の政治状況に詳しく、袁世凱孫文の技術顧問として、支那における鉄道建設と外国からの資金調達に代理人として深く関与した。 そして、1932年に満洲国が建国されると満洲国政府顧問に就任した。このようにブロンソン・リーは、当時の支那満洲の事情に精通していた。

 

66年の生涯のうちじつに32年をシナで過ごしている。
アメリカの意思としては、陸軍長官・スティムソンの「満洲国非公認派」(これが日米戦争につながっていく)と、数少ない「満洲国公認派」(ラルフタウンゼントとか数人しかいねえ(笑))である。


本書の意義は、満洲国建国に至る過去30年以上の間の支那本土と満洲の事情に極めて詳しい米国人が、満洲国建国に至る日本の行為は、世界から非難されるいわれはなく、米国の日本及び支那に対する行為と態度こそが非難されるべきであって、満洲国建国には極めて正当な理由が存在するという点にある。
本書は、東京裁判に弁護人側から提出されたが、他の多くの証拠と共に却下されている。満洲国は、国際連盟の加盟国でなはない米国と、リットン調査報告書に基づいた連盟の決議により非難された。
ブロンソン・リーが満洲国建国が正当であるとする理由は、以下の通りである。


1. 満洲支那共和国の領土ではない。

元来、満洲漢民族の領土ではない。1616年ヌルハチは後金国を建国し、1636年後金国は清と改名された。1644年順治帝は明を滅亡させて北京に遷都した。清朝は最初は万里の長城より北の地(満洲)だけを治め清国を建国したが、明朝が滅亡した後に、長城の南の漢の地を征服した。満洲は、その後、長い間、漢民族の入植が禁止されていた。

 

日露戦争の結果、南満洲鉄道の経営権を得た日本の投資により、満洲は発展し、万里の長城の以南の戦乱状態にあった支那本土から漢民族が入植してきた。リットン調査報告書は、漢民族が多数であるので、満洲には支那本土の主権があるとしたが、これは誤りである。

その地の主権が、多数民族を送り出した国にあるのであれば、ハワイの多数住民は日本人であるので、ハワイの主権は日本にあることになる。ハワイは王朝支配の独立国家であった。幾ら、異民族が多数となっても、その異民族を送り出した国の主権が及ぶことはあり得ない。

 

2. 満洲国建国は、不戦条約及び9カ国条約には違反しない。

満洲は、張学良、その他の軍閥が支配しており、苛斂誅求が厳しく、満洲民族や入植住民は、抑圧されていた。
不戦条約は国家間の紛争を戦争に訴えることを禁止しているが、抑圧されいる民族が抑圧者による抑圧を排除するための戦争は、不戦条約違反にはならない。

 

3. 満洲国は独立国家である。

満洲では、張学良軍閥による日本人に対する排日テロ行為が頻発し、ついに日本軍は張学良軍閥を討伐し駆逐した。
この行為が、9カ国条約違反として、連盟により非難された。満洲の民は、張学良が駆逐されたことを幸いに、独立を果たした。
欧米はこれを日本の所為にしているが、真相は真逆である。日本の外交政策と自衛手段をことごとく妨害し、日本は生存権すら奪われかけた。
米国は、支那での自己の権利を独占するために、9カ国条約を楯にとり、日本を非難し、支那を支援した。その結果、支那は、一方的に条約を破棄するなど、反日、排日を進めることになった。

 

↑どうです、この一連の論旨の見事な流れ、これをアメリカ人が言ってるんだから驚きである。当時、これほど慧眼なアメリカ人がいたことも別の意味で驚きではないだろうか。 


本書は東京裁判・却下未提出弁護側資料の一つ。
東京裁判・却下未提出弁護側資料第2巻362~397頁にジョージ・ブロンソン・リーの著書(原題はCase for Manchoukuo)の抜粋がある。
あらゆる論点から満洲国出現の合理性を立証するブロンソン・リーの著書が弁護団によって提出され裁判所によって受理されていれば、僅か一人の親日的なアメリカ人によって東京裁判の事実上の実施者である連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の企みが覆されたであろう。


かれは言う。「満洲国は中国の領土ではない」
「『リットン報告書』はデタラメな裁判である」うえ、「満洲国は条約違反をしていない」、「いやそもそも中国は国家ではない」のだ、と。

 ブロンソン・リーは、当時のシナ大陸の実情を次のように活写している。

 

「北京から江西省までの各軍閥は、中国で最も繁栄している地域を取りもどそうという気になった。そこでは張学良一派が三千万の人民から富を掠奪し、盗み、その歳入は南京政府に勝るとも劣らなかった。(中略)彼らの奇襲や虐殺によって
無法状態が現出した。新国家の信用を失わせ、秩序生前とした政府を成立指せにくくするためである。揚子江の南にいるあらゆる急進的な指導者がお膳立てし、新たな戦争の種を撒いた」
にもかかわらずアメリカの遣り方は、この無秩序を助長するような愚かな対応ばかりしていたのだ。


最近の北京市の大洪水をみて、この「満洲国弁護論」を想起せざるをない。
端的に言えば、シナ人の為政者はダメである。

 

北京市を守るために、上流のダムを複数、突然、住民に通告なく解放したとのこと。
あの流量はただ事ではない。あれはただの豪雨ではない。
私はかつての黄河決壊事件を思い出す。

 

黄河決壊事件
蔣介石が日本軍の通路を防ぐ目的で苦し紛れで黄河の堤防を破壊し、九州に匹敵する面積の地方を水浸しにして中国人民に多大な損失をもたらした。

 

↑復旧は(住民の救出を含めて)、進軍を止めてすべて日本軍が行った。住民を救出中の日本軍にたいして、蔣介石の国民党軍は、機関銃を撃ってきたと(これホントの話)。歴史の闇に飲まれて(反日バカサヨクが大きな顔をして、のし歩いている現代日本では)、知らない人も多いのではないか。名監督、山中貞雄はこのとき泥水を飲んだのが原因となり亡くなっている。

 

1937年の『人情紙風船』完成直後に日中戦争に召集され、翌1938年に中国の開封市で戦病死した。

4月24日からは徐州会戦に参加し、5月19日の徐州占領後は隴海線沿いを西進して追撃戦に参加した。
6月12日には中国軍が黄河決壊事件を起こしたことで、河南省の大部分に黄河の濁水が流れ出し、山中たちは約1ヶ月間、褌一丁の裸になって洪水地帯で戦闘に従事した。しかし、その時に濁水を飲み込んだのが原因で急性腸炎を発病し、7月19日に開封市内の第16師団第2野戦病院に入院し、8月には同市内の第5師団第2野戦病院に転送された。病状は一向に良くならず、8月15日付の井上宛の手紙には「下痢が酷い」と書いていた。9月2日には開封野戦予備病院へ移り、第28班患者療養所に収容された。収容時の山中は食欲不振で栄養が足らず、るいそう甚だしく重体とされた。9月7日頃には病状が落ち着いて経過良好となりつつあったが、9月17日午前6時半頃に突如病状が悪化し、同日午前7時に死亡した。満28歳だった。

 

↑シナ人と、ちょうせんじんには、これは、これだけはやってはいけないという判断基準がもともとない。自分さえよければ、基本的に、何でもありのミンジョクである。


北方領土返還よりだいぶ先の話になるが、歴史はヒトめぐりして、また中国大陸経営に、今度は、列強に期待されて、世界に期待されて、今度はアメリカと協力しながら(笑)、日本が再び乗り出していく未来が見える。