シナ人とは何か―内田良平の『支那観』を読む 2009/宮崎 正弘 (著), 内田良平研究会 (著)展転社 中国文明の本質を鋭くえぐり、趨勢を見極めた「強攻」外交の提言。現在によみがえる内田良平の国家戦略書。間違っていた日本人の対中理解を正す。

宮崎正弘氏の解説が読みやすくて短くまとまっており、非常にタメになった。
孫文に対する物心両面の手厚い援助。そして、予定調和のような裏切り。
本来なら、中国人は日本人に対して足を向けて寝られないのだということがよくわかる。

 

内田がシナ観を書いたのは大正2年、すなわち1913年であった。
その頃のシナは、四分五裂しており、シナの混乱こそが大問題ではあったが、シナが統一された国家として日本人への脅威である事はなかった。
今や情勢は一変している。
シナは国家として、統一されているばかりではなく、核兵器を持ち、人工衛星を打ち上げ、隣国のチベット東トルキスタンを侵略しその征服を続けている。
内田のシナ人観の本質は、今日も正しいであろう。

 

内田良平は「黒龍会」というマフィア的団体を結成してアジア侵略を図った右翼というイメージがあるが、これは多分に戦後占領軍により流布された宣伝によるものであろう。アジアへの西欧の侵略を防ぐため、支邦の覚醒を求めて辛亥革命に多大な支援を行った。当時、支邦に無償の支援を行った日本人は内田良平に限らず、宮崎滔天を始め多くの人々がいる。なお、「黒龍会」の黒龍とは、満洲とロシア国境を流れる黒龍江アムール川)に由来するものである。


内田 良平(うちだ りょうへい、1874年〈明治7年〉2月11日 - 1937年〈昭和12年〉7月26日)は、日本の国家主義者・右翼運動家・アジア主義者。黒龍会主幹、大日本生産党総裁

福岡藩士であり、武芸の達人として知られた内田良五郎の三男として現在の福岡県福岡市大円寺町(現・唐人町)に生まれる。幼名良助。明治34年(1902年)に良平と改名した。幼時より弓道、剣道、柔術、相撲、射撃を父に学んだ。なお、父・良五郎の神道夢想流杖術の門下には、「昭和の剣聖」の一人である中山博道がいる。

明治31年(1898年)宮崎滔天を通じて孫文と知り合い、親交を結ぶ。
明治33年(1900年)中国・広州に赴き、孫文李鴻章提携を斡旋する一方、革命義勇軍を組織して孫文の革命運動を援助した。
明治34年(1901年)黒龍会を結成し、ロシア事情を紹介。さらに明治36年1903年)には対露同志会を結成し、日露開戦を強く主張した。
明治38年(1905年)宮崎・末永節らとともに孫文・黄興の提携による中国革命同盟会の成立に関係する。また、フィリピン独立運動指導者のエミリオ・アギナルド、インド独立運動指導者のラス・ビハリ・ボースの活動も支援した。

明治39年1906年)に韓国統監府嘱託となり、初代朝鮮統監の伊藤博文随行して渡韓した。
明治40年(1907年)には、「一進会」会長の李容九と日韓の合邦運動を盟約し、その顧問となった。このとき双方で日韓合邦構想が確認された。
当時一進会朝鮮半島への侵略行為を繰り返すロシアの南下に危機感を持ち、明治42年(1909年)12月、内田などが李容九とともに「一進会会長李容九および百万会員」の名で「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)」を、韓国皇帝純宗、曾禰荒助韓国統監、首相李完用に提出した。

↑ぜんぶ載せられないのが残念だ。とにかくすごい人生だ。


内田良平の「支那観」を読むと題した本書では、内田良平の深い中国への深い理解がまとめられている。
内田良平支那観:
一、平気でウソをつく。
二、平然と恩人を裏切る。
三、歴史事実を故意に改変する。
四、約束を守らない。
五、身内・仲間は大事にするが、「外部」は騙す
六、敵を分断し、陰謀を常に仕掛ける。
七、自分本位に思考し、自己利益のみを追求する。
八、社会構成が「聖人主義」であり、平等思想を認めない。
九、その地位についたものは地位を利用し私服を肥やす。

今の中国人と何も変わらないじゃないか。

そして、日本国民の対中認識または対中行動については、
一部で「孔子の出た国」として、外国(異文明圏)と見ず、思い入れたっぷりの情緒的な中国観を持つものが出る。
文学と現實を混同して、「美しい誤解」をする。あるいは「信じたがる」者が出る。
裏切られても、騙されても、譲歩すれば中国も應分の譲歩をしてくれると信じている。

まさに、今の愚かな日本人と同じである。我々日本人は、もっと戦前の英知に学ぶ必要がある。
福沢諭吉先生のシナ版といえるかもしれない。

 

俗に「志那通」と呼ばれる、自称他称のシナ専門家が日本陸軍には多数いた。
南京事件の責任を取らされて、無実なのに虐殺された松井大将もまた志那通であった。

内田良平の凄いのは、支邦に対してロマンチックな思い入れからではなく、過去の歴史をも含めて現実を捉えたリアリストであることである。
そしてこれは実際に辛亥革命の支援に関わって支邦と支邦人の実像を理解した上での深い絶望から生まれた「支邦観」である。
明治44年(1911年)、辛亥革命により、清朝は滅亡した。
「支邦観」は支邦の混迷が続く大正2年(1913年)に出版され、附録として時の首相、山本権兵衛への提言が付されている。


併せて読みたい

西尾陽太郎『李容九小伝―裏切られた日韓合邦運動―』(葦書房)1978年
初瀬龍平『伝統的右翼内田良平の研究』(九州大学出版会)1980年


最終目標は天皇の処刑 2012/1/20ペマ・ギャルポ (著) 飛鳥新社

 ~中国「日本解放工作」の恐るべき全貌~  
謝罪の果てに何が来るか冷静に考えよう… 「日本解放第二期工作要綱」文書 要約
第一期目標……日中国交の正常化
第二期目標……日本に民主連合政府を成立させる
第三期目標……天皇制の廃止(天皇は戦犯として処刑)と日本人民民主共和国の樹立
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■「十年以内に日本を核攻撃」と中国人民解放軍トップが発言 http://www.youtube.com/watch?v=YP6F8AuiHDM 
「この十年以内に核攻撃で日本などを消滅させ、中国が世界人口の中で大きな比率を占め、人類の進化の過程で  有利な位置を占めるようにする」 
この驚嘆すべき発言は、中国国防大学院長の朱成虎少将のもの。国防大学防務学部の内部会議での講話(記録係・蔡長杰)を、中国事情に詳しい鳴霞氏が入手した。 

「愚かな計画出産政策を放棄して、できるだけ多くの子供を産み、計画的に周辺諸国に浸透させる。周辺諸国  への密入国を人民に奨励する」と中国人の人口膨張を推進する。 
 さらに、攻撃対象として日本などの.国々を挙げている。その方法として、「機が熟したら、果敢に猛烈な勢い で、全面的な核攻撃を発動し、相手が反撃に出る前に、その人口の-大部分を消滅させるよう努める」と言い、 
 最後に、「中華民族が手に入れるのは世界全体である」と締括る。

約九千字からなる朱成虎の言い分は「人口増加により資源が欠乏し戦争が勃発した後、一部の人口が消耗して 均衡が保つ」と。その人類の歴史の発展の中で「中国は後手に回って討たれるよりは、主導的に討つて出る方が いい。核戦争は人口問題解決に最も有効だ。中国は全力で核戦争を行う準備を整えるべきと決めつけ、「大切なのは、我が中国がこの競争において機先を制し、他国・他民族の人口をできるだけ減少させるやう努めると ともに、自国の人間が数多く生き延びるようにする」と述べた。 

↑アグネスの母国