信長の「天下布武」の過程で大きな障害となったのが、各地の一向宗門徒であり、石山本願寺であった。一向宗門徒の殲滅を計る信長に対し、本願寺の顕如は、各地の一向宗門徒に蜂起を指令、かつ武田信玄・浅井長政・朝倉義景・毛利輝元・足利義昭らと“反信長戦線”を構築して徹底対決した―。十年に及ぶ石山本願寺合戦の全貌を、本願寺の側から克明に活写し、日本戦国史に一石を投じる書。
日本歴史上最大の武闘派である織田信長と、石山本願寺の10年にわたる合戦の全記録である。
いやあー、おもしろい。
坊さんもやるじゃないかというレベルではむろんない。
信長も撃たれて死にかけている。
弟や息子、重臣が何人も、討ち死にしてる。
あまり知識がなかったので、この本を読んで知ったことだが、石山本願寺との10年にわたる戦いと言っても、あの今の大阪城が建つ上町台地の北端部分にあった本願寺とのドンパチだけでなく、実に広域にわたってるということ。
密度の濃い10年だ。文字通りの全面戦争だ。
石山本願寺側が使嗾したのだろう、最中に、裏切りが発生する。
松永久秀、荒木村重である。
包囲戦をやりながら、それらの征伐に向かう信長。
あと、伊勢長島の一向一揆皆殺しもある。
矢銭を要求した信長に対し、拒否したことが発端。
堺市は要求を飲んだのに、石山本願寺は頑強に抵抗したらしい。
当時、石山本願寺は、正親町天皇の即位式の金銭を用立てたというくらい、富んでいた。
石山本願寺こそが、京都、大坂、堺、日本の権力の中枢に鎮座した最大最強の戦国大名であったこと、そして日本の中世の最後であり最強の守旧勢力であったことを、あらためて認識させられた。
これだけの大戦争、現代に生きる我々にかなり影響を知らず知らずのうちに与えてるかもしれないと思った。
つまり、日本人の宗教観といったものに。
外国人と話すと、日本人の宗教観といったものが独特らしい。
無宗教とすると、彼ら外国人にとってはテロリストと同じようなものらしい。
何度も他で聞いた話かもしれないが。
我々日本人からすれば、そっちのほうが窮屈に感じる。
ただ、世界標準からすれば日本人の宗教観の方が特異なのであろう。
それがいつから始まったのかと考えれば、私は、これが、織田信長と石山本願寺の10年にわたる合戦の影響ではないかとふと思った、