「福沢諭吉」とは誰か:先祖考から社説真偽判定まで (MINERVA歴史・文化ライブラリー) 2017/平山 洋 (著) ミネルヴァ書房

近代日本を代表する言論人・福沢諭吉には、いまだ十分に探られてこなかった重要な来歴がある。すなわち、信州福沢に生まれた先祖がいかにして豊前中津に至ったか、そして『西洋事情』がどのように近代日本の思想界に影響を与えたか、さらに福沢の署名著作がどのような手順で刊行されるに至ったか、である。本書では、
それらを知るために不可欠な関係資料の紹介とともに、徹底的に解明する。

 


かつて触れた著者の13年後の著書である。
まったく期待せずに開いてみたら、これが存外おもしろい。

 

2023-10-18
福沢諭吉の真実 (文春新書) 2004/平山 洋 (著)を批判的に読む 日本の歴史から、「長崎事件」が消えている!!!
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/10/18/155407


まずは福沢諭吉の先祖の土地、九州・中津藩の内部闘争の話がよかった。
徳川天下泰平とはいえ、色々なことがあったのだなあと思い知らされた。

 

信州から九州中津に転封(てんぽう)されてきた小笠原家。
はじめの2代は優秀だったが、それ以降、暗愚な人が殿様に。
基本は戦争がなくなって天下泰平な世の中だけに、暗愚な殿様が現れたらもう終わりである。

下毛原台地(しもけばる)という不毛の土地があり、中津藩としては何としても増収のため、、そこを新田開発したかった。
下毛原台地は山国川から離れた場所にあって、悪いことに間に八面山という大きな山があり、トンネルを掘らない限り水を通すことは難しいという難問があった。
その間に飢饉があって、「温暖な九州」でも、餓死者まで続出したのは、初めて知って驚きであった。

 

暗愚な殿様を追放して、トンネル掘削工事をはじめ、新田開発がうまくいき、結果、1万石の増収につながり、追放されていた家老、重臣たちを呼び戻して藩を再興させたという。


2つ目は、福沢諭吉の発祥の地、信州をめぐる論考である。
これもなかなか読ませる。

現在、長野県茅野市・中大塩団地の中に碑が出来ていて、ここが福沢家発祥の地であると、碑文には書かれてあるが、それはおかしいと著者。
なぜならこの地は、原住の諏訪氏武田勝頼、信玄による攻防の土地で、その中で生き残って小笠原家の家臣になった者がいたとは思えないとのこと。

 

その後、著者は長野県に残る11か所の「福沢」地名を調べ上げ、全部を調査して回ったという。
土地の寸評が写真付きで載っている。
何という情熱!

けっきょく、どれもこれも該当せず、ただ1件だけ、名主の平助という人物が諏訪郡福沢村にいて、その人物が福沢諭吉の先祖である可能性が高いとのこと。

 

あと、福沢諭吉の「西洋事情」が五箇条の御誓文に与えた影響など興味深い論考がある。


さて、最後にこれを論じなくては始まらない。

第3章 福沢諭吉の「脱亜論」と「アジア蔑視観」について

 

往生際のわるいひと(笑)。

 

アマゾンレビューに本書に対する★一つの辛辣な、反日サヨク・つくしん坊さんからの秀逸な感想

    つくしん坊
5つ星のうち1.0 不毛な「社説真偽判定」までして福沢諭吉を美化するのは、いい加減に止めてはどうか
2018年1月11日に日本でレビュー済み
著者は1961年生まれの福沢諭吉研究家であり、自著の『福沢諭吉の真実』(文春新書、2004年刊)に見られるように、近年は「諭吉美化」にひたすら励んできた。その手法は「井田メソッド」なる非科学的な著者判定法で諭吉を擁護するもので、いまだにその手法にしがみ付いて本書を刊行した、という訳である。痛々しい限りだ。不毛な「社説真偽判定」までして福沢諭吉を美化するのは、いい加減に止めてはどうか。以下、詳しく説明しよう。

 

「安川・平山論争」なるものがあり、「福澤諭吉アジア諸国を蔑視していたかどうか」が議論された(Wikipedia)。平山氏が諭吉を「アジア侵略主義者」(安川寿之輔説)ではなく、丸山真男が唱えた「市民的自由主義者」であると擁護する際の最大の根拠が、諭吉が創刊した『時事新報』の無署名社説で侵略主義的言説を振り撒いているものは、実は諭吉ではなく別の社員が執筆した、というものである。本書でもこの「社説真偽判定」が用いられている。

 

(3) 社説は無署名であっても諭吉が丹念に添削しているので、実質的に諭吉作であること
上述のように本書の著者は、『時事新報』の無署名社説で侵略主義的言説を振りまいているものは、実は諭吉ではなく別の社員が執筆した、という自らが作り上げた「神話」に拘り続けている。いまだにこの「神話」を信じている人が少なくないので、実に始末が悪い。常識で考えても、諭吉がオーナーである『時事新報』の社説は、たとえ無署名であっても、諭吉の考え方を反映していると見做すのが当然である。慶應義塾大学で諭吉を専門に研究している都倉武之氏は次のように述べている(同大学出版会HP、時事新報史 第9回:『時事新報』論説をめぐって(1) 論説執筆者認定論争、2006年10月31日掲載)。「『時事新報』の社説は一切無署名で、他の社説記者の起草に係るものでもすべて福沢の加筆修正を経て発表されたもので、漫言や社説以外の論説もほとんど無署名または変名であるから、新聞の紙面からその執筆者を推定判別することは、今日の我々ではよくなし得ない」。つまり『時事新報』の社説は実質的にすべて諭吉の考え方を表わしており、たとえ「井田メソッド」が正しいとしても、社説の片言隻句から執筆者が諭吉かどうかを判定するのは、全くの徒労なのだ。この都倉氏の10年以上前の発言は、本書の手法を完全否定していることがお分かりだろうか。本書の「おわりに」で、著者は安川氏から正式な再反論がないから自分が正しい、と主張しているが、とんでもない! 諭吉研究家でも何でもない評者が少し調べただけで、平山説が謬説であることが分かるのだ。まともな研究者であれば、平山説を相手にしないだけのことである。

 

さて、「福沢諭吉とは誰か」。安川氏の一連の著作が実証したように、啓蒙思想家としてのごく初期を除けば、諭吉の著作には、アジア蔑視、好戦的、対外侵攻、強権的植民地支配などに加えて、女性蔑視、弱者(低学歴者など)蔑視、貧乏人蔑視、などの言説が溢れている。その内容は、昨今の極右派の評論家・政治家・雑誌・新聞やネトウヨおよびヘイトスピーチ団体による発言と酷似している。評者は諭吉に「元祖ネトウヨ」のタイトルを進呈したい。このような人物を、無自覚にも日本が最高金額の紙幣に飾り立てている限り、アジア諸国との真の友好関係を築くことは無理だろう。

 

↑前半は大いに賛同できるが、後半は間違い。

いつの間にか、シナが被害者、大日本帝国が加害者になってるが、それは間違いである。
先に殴ってきたのは間違いなくシナである。


2023-06-12 https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/06/12/025318
長崎清国水兵争闘事件「再考」 明治19年。 それは、明治の「元寇」だった!
2023-05-26

 

反日バカ左翼は、いつも日清戦争を取り上げる際、けっして「長崎事件」には触れないということ。
長崎事件は全く知られていないが、1886年(明治19)その当時、清帝国と呼ばれた中国の北洋艦隊が突如長崎に来襲し、 水兵の大集団が大暴動を起こした侵略事件だ。 

原因があるから結果がある。
日清戦争に関しては、原因は長崎清国水兵争闘事件だ。はっきりしてる。


日清戦争時の総兵力、日本は24万人に対して清国は98万人。
         軍艦は、日本28隻に対して、清国は82隻。
         GNPは日本の約10倍!!!

 

日露戦争も似たようなもんだが、こんな巨大な敵を倒してるもんだから、真珠湾攻撃したくなる気持ちもわかるというもの、

 

福沢諭吉の、「これは文明と野蛮の戦争だ」(『時事新報』1894年7月29日)との卓見。

内村鑑三も「義戦」と位置づけた。
事件の後、日本人はプッツン切れた。あのクリスチャンの内村鑑三でさえ、
 
「文明国として不実のシナに対しては鉄血を以って正義を求めるしかない永久平和の為に戦え」と言ったほど 
 そして日本は軍備増強を行い、8年後、清国を打ち破るのであった。

 

なお、内村と同じように10年後の日露戦争で非戦〔反戦〕の立場をとる田中正造も、対清戦争を支持していた。民間の義勇兵運動の広がり、福沢(献金額第2位)や有力財界人などによる軍資金献納にも現れた。清との戦争は、まさに挙国一致の戦争であった。


日清戦争は完全な自衛戦争
勝てる体制になるまで8年かかってる、臥薪嘗胆の8年だ
忌々しい反日売国バカサヨク歴史観にはこの歴史認識(長崎事件)が抜けてる 
無垢なる中国に一方的に悪いことした… アホか


この長崎事件は当時、日本全国に一大ショックを与え、清国に対する日本人の敵愾心が、烈火のように燃え上がりました。 
この事件の背景には、朝鮮問題を巡る日清両国の紛争がありました。
そこで日本を脅かすため、清国海軍が計画的に長崎に殴り込みをかけたのです。
当時の弱小国、日本は歯噛みしながら、なす術もなかったのです。 

 

艦名の「遠」は外国,特に日本をさし、「定遠」「鎮遠」は日本鎮定の意味。 
(ドイツ製で,排水量7,400t,当時世界最大の戦艦だった。ちなみに現在の日本のイージス艦あたご7700t) 

日本海軍はイギリス製の「浪速」と「高千穂」(3000t)の小艦があるだけ。当時の日本海軍は、中国主力艦『鎮遠』、『定遠』の2装甲艦にまったく立ち向かうことができない実力であり、戦争など思いもよらないことだった。 

 
李鴻章は日本に謝罪するどころか、 日本との戦争も辞さずという強硬な態度を取る。
日本政府はその圧力に屈し、賠償金を払い日本側関係者の処罰まで行う。 

事件後、日清両国は長崎においては英仏人弁護士の加わった会弁委員会で、また東京では井上馨外相と徐承祖駐日公使により交渉が行われ、
最終的には英独公使などの斡旋を経て妥結した。
その内容は事件の当事者については所属国の法律により処分、また撫恤料として日本からは52500円、清国から15500円を支出するというものであった。

 

 これは出来レース、はじめから日本に因縁ふっかけるつもりで連中は日本に来ていた。
なぜこのような理不尽な処理をしたかというと、当時の清国の兵力108万4千人に対して日本は7万8千人であり、 
もしこの事件がきっかけで戦争になったら簡単に東京を制圧され、九州を取られていただろうと予測されていた為だ。