マタギ奇談 Kindle版 工藤 隆雄 (著) 2016 山と溪谷社

マタギたちが経験した山での不思議な経験を、長年にわたって取材、書き下ろした実話譚。

 

第一章 歴史のはざまで 
マタギが八甲田で見た人影はなんだったのか/菅江真澄と暗門の滝の謎/尾太鉱山跡で見つかった白骨/雪男を求めてヒマラヤに行ったマタギ


著者・工藤 隆雄氏が、青森県出身の赤石マタギである吉川隆氏と世界遺産白神山地の暗門の滝を歩いていた時に聞いた話だという。

 

菅江真澄弘前藩に、暗門の滝を見たいから訪問の許可を欲しいと何度も頼んだが、許可が下りなかった。その後、何度も頼んでようやく許可が下りたのが真冬だった。滑ったら滝つぼに落ちて一巻の終わりの真冬だ。なぜ、そんなときに意地悪く許可したのかといえば、弘前藩は暗門の滝にある秘密を菅江真澄に知られたくなかったためらしい。その反対に、菅江真澄は冬でもいいからとにかく行って、暗門の滝の秘密をなんとか暴きたかったようだ」


確かに不自然ではある。
難所でもある暗門の滝を春と冬、2度も訪れるという不思議。

江戸時代の永遠の旅人、菅江真澄については以前に少し書いた。

 

2023-10-29
菅江真澄遊覧記』全5巻、内田武志、宮本常一編訳ワイド版平凡社東洋文庫、2003-2004年。菅江真澄という江戸時代の紀行作家を知っていますか。
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/10/29/041642

 

津軽に足を伸ばした時には 幕府のスパイと間違われて原稿を没収されてしまった。貧乏で有名だった弘前藩は、特産物の幾つかに税金を掛け 製造や生産の詳細を秘密にしていた。どうやら銀山の部分が疑われたらしい。


弘前藩は、暗門の滝の上にある開けた土地でケシを栽培していたのではないかという驚くべき説を工藤氏が述べている。

 

弘前藩の特産物として当時、「一粒金丹」という滋養強壮の特効薬を販売していた。
ケシ(アヘン)から作られるもので、効き目が抜群であり、ひと月に100両もの売り上げがあり、藩の財政に大いに貢献していたという。
それに、江戸時代の、「津軽」とはアヘンの隠語でそれくらい一般に浸透していた薬だという。


その事実をどこからか聞きつけ、菅江真澄は調査のため津軽に行ったのではないか。
隠し田は重罪である。
確かに、菅江真澄は都合7年もの間、津軽に滞在している。
蝦夷地で、4年、津軽にで7年である。

 

弘前藩からすれば、幕府の密偵を簡単には始末できないだろう。
薬事の係に就かせたり、いろいろの懐柔政策をおこなった結果が、7年という長期滞在につながったとは言えないだろうか。
けっきょく最終的には、津軽滞在分の日記を没収して、菅江真澄津軽から追い出してしまう。


菅江真澄は、もしかしたら徳川幕府の間者(密偵)だったのではないか。


天明密偵 小説 菅江真澄 2004/中津 文彦 (著)文藝春秋
天明密偵 (PHP文芸文庫) 2013/中津 文彦 (著)

 

三河・吉田宿の御師の次男に生まれ、国学者で藩の御用商人でもあった植田義方のもとで勉学に勤しんだ彼は、岡崎へ出て和歌を、名古屋では絵画と本草学を身につけた後、30歳で古里を後にして長い旅に出る。当時は、天明の大飢饉浅間山の大噴火などの天変地異、賄賂にまみれ、幕府を意のままに動かす老中・田沼意次松平定信ら譜代衆の対立、松前藩問題と北方ロシアの脅威など、幕藩体制が大きく揺らいだ激動の時代だった。
そんな中、彼は何を求めて、信濃、出羽、陸奥、そして蝦夷地へと旅をしたのか――。彼を蝦夷地へと駆り立てたものは何だったのか――。
本書は、立身出世を願うも叶わず、生涯を旅に生きざるをえなかった菅江真澄の虚実入り交じった人生をミステリーの手法で掘り起こしながら、彼の秘密に迫った傑作歴史小説である。

 

マタギ奇談のなかで紹介された中津文彦氏の時代小説。 じつに読み応えがあった。


菅江真澄の略歴紹介で、1行2行で軽く触れられる菅江真澄密偵説。
柳田国男はもちろん反対の立場だ。

 

マタギ奇談の工藤 隆雄氏が、青森県出身の赤石マタギである吉川隆氏から、暗門の滝をめぐる菅江真澄の話を聞いたのが、せいぜい、2015年あたり。
一方、中津 文彦氏は、田沼意次配下の家来が書き残した「蝦夷拾遺」をもとに構想したとのこと。2004年あたりのことか。

当然、中津氏は暗門の滝をめぐる菅江真澄の件については知らなかったものと思われる。


ウィキペディア田沼意次のところに載っている。

 

蝦夷地開発

松本秀持の蝦夷地政策で、蝦夷地を開発し金銀銅山を開き、産出した金銀でロシアと交易し、利益を得ようという試みがあった。

この数十年、ロシアは日本との交易を望んでいたので、これを放置していては密貿易が盛んになると危惧していた。そこで公式に貿易を認めれば、ロシアは食料がほしいので、俵物だけでも交易になるので利益になるだろうと考えた。蝦夷地の金銀銅山を開発し、ロシア交易にあてれば、長崎貿易も盛んになると試算した。

 

蝦夷地を調査するために幕府が派遣したメンバーには、青島俊蔵、最上徳内、大石逸平、庵原弥六などがいた。また、蝦夷地の調査開発をすすめる事務方には、勘定奉行松本秀持、勘定組頭土山宗次郎などがいた。蝦夷地調査で鉱山開発やロシア交易の実現性を調べ、蝦夷地開発の可否を決定することとなった。調査隊は天明5年(1785年)4月29日に松前を発ち、東から国後、西から択捉の2隊に分かれて進んだ。翌天明6年(1786年)2月、佐藤玄六郎による調査報告があがった。調査の結果、危惧していたのと違い、ロシアとの間の密貿易は交易といえるほどの規模では存在しなかった。ロシアは日本と交易をしたがっているので、正式に交易を始めればかなりの規模になるだろうが、外国製品は長崎貿易で十分入手できている現状、無理にロシア交易を始めても長崎貿易に支障をきたすことになり、そのうえいくら禁止しても金銀銅が流出することになる。結果、最終的に田沼は蝦夷の鉱山開発、ロシア交易を放棄した。

 

蝦夷地の鉱山開発・ロシア交易の構想が頓挫したことで、松本は新田開発案に転換した。松本の構想は非現実的なもので、

農地開発のため、アイヌを3万に穢多、非人を7万人移住させ、新田開発が進んで農民が増えれば、商人たちも増え、人口を増える。さらに異国との通路を締め切り、日本の威光によりロシア、満州、山丹までもが日本に服属し、永久の安全保障となる。蝦夷地が開発されれば、奥羽両国も中国地方のような良い国柄になる。新田開発もあまり時間をかけず、人口の増加も8、9年で実現できる。
と記している。

 

田沼失脚後、蝦夷地開発はいったん中止となった。しかし、この政策は老中を含む幕府の大多数に支持されていた。開拓反対派である松平定信も、早急な開拓に反対しているだけで、将来的な蝦夷の開拓自体は肯定派だった。定信が失脚した後の寛政11年(1799年)、幕府は東蝦夷地を直轄とし、中止されていた蝦夷地開発を開始した。文化4年(1807年)には松前藩から領地を取り上げ、全蝦夷地を直轄した。田沼が提唱した幕府による蝦夷開発計画は、その後は紆余曲折はあったものの、文政4年(1821年)に中止されるまで継続していくこととなる。