『菅江真澄遊覧記』全5巻、内田武志、宮本常一編訳ワイド版平凡社東洋文庫、2003-2004年。菅江真澄という江戸時代の紀行作家を知っていますか。

菅江真澄という江戸時代の紀行作家を知っていますか。
天明3年(1783),30歳で故郷三河を出発し,信州から東北・北海道までを巡歴,後半生を旅に送り秋田で没した稀有な旅行者が,常民の生活と民俗をつづる遊覧記。

 

菅江真澄は相当な変わり者だったらしく、生まれ故郷や本職や年齢さえも友人に教えず、いつも頭巾をかぶり目上の人と会う際にも頭巾を取らなかったという。

有名な肖像画は死の一年前に旅の画師に書かせた物を模写して書かれたもの。

頭巾の形が本人が被っていたのと形状が違うそうだ。この「定被り」の頭巾の理由も謎なのだ。刀傷だのハンセン氏病説もある。

 

生まれは三河らしく医家であったらしい。交友関係から推察して。書かれた内容から「本草」を詳しく書いており心得の薄い人間では書けない内容も含まれている。また自分で眼軟膏を作製しているので、医家であったのは間違いないだろう。

津軽に足を伸ばした時には 幕府のスパイと間違われて原稿を没収されてしまった。貧乏で有名だった津軽藩は、特産物の幾つかに税金を掛け 製造や生産の詳細を秘密にしていた。どうやら銀山の部分が疑われたらしい。

 

その後もあちこちに足を運んだが、最終的には秋田県に住んでいたという事だけが確実という謎の人である。
菅江真澄の数ある著作で面白いのは、常に第三者目線で決して悪口を書かず淡々と見た事を書き綴っているように見えるが、実は日記でさえ推敲し書写してから写本を譲る事が多く、紛失・散逸した文章が多いとのこと。

 

カメラアイに徹している。自分の感想を決して述べない。
ここが凄い。

行く先々で土地の人の好意にすがり、宿泊先を得ている。
ここも凄い。
特に、天明の飢饉の翌年、あの津軽に行って、宿泊先を得ているのは凄いとしか言いようがない。
菅江真澄の人徳もあるだろうが、当時の東北の人々の優しさを感じる。
道端に飢饉で餓死したその骸骨が散らばっているというのに!

 

本書は柳田邦男によって昭和7年に初めて取り上げられ、全国的に有名になった旅行記である。

 

特に記憶に残ったのは蝦夷地編の、どこに行っても円空の彫刻と義経伝説が残っていることだ。
源義経はほんとに生き残って蝦夷地に渡んじゃないのと思わせる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%A9%BA

 

何故に故郷を捨てて彷徨ったのか?
それも解らない。頭巾の謎とも関わり本当の事は誰にもわからない。
他人と自分の間に深い一線を引いたまま一生を異郷の地で過ごしたのは何故なのだろう?
亡くなってから、秋田で墓を作った知り合いが、彼の故郷に消息を伝えに行った事は事実らしいので、亡くなる直前には父母や兄弟の住所を誰かに伝えていた様子である。逆に三河から墓を尋ねに来た人間は誰もいないとのこと。


併せて読みたい

 

菅江真澄遊覧記』全5巻、内田武志、宮本常一編訳
平凡社東洋文庫(54、68、82、99、119)、1965年11月-1968年7月。
ワイド版東洋文庫(54、68、82、99、119)、2003-2004年。

 

↑このワイド版がお勧めです。現代語訳だし大きくて読みやすい。すらすら読める。

 

菅江真澄江差浜街道 (1984年) 小林 優幸 (著) みやま書房

 

菅江真澄が江戸時代の北海道(当時はもちろん、蝦夷地)に渡って周遊したときの記録。とにかく、静かで凄い人だ。