「ごろつき(無頼漢)の話」折口信夫(昭和3年、1928「古代研究」所収)。

知らないうちに2回も、折口信夫の「ごろつき(無頼漢)の話」(昭和3年、1928「古代研究」所収)に触れていたことになる。

 

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ここで著者は折口信夫の名解釈をもってくる。

「ごろつき(無頼漢)の話」(昭和3年、1928「古代研究」所収)。

「ところで彼らのものの考え方には独特のものがあった。折口信夫に従うと、それは情念のおもむくままに、意気に感じる気分に従って生きるという点にあり、そのためには生命を失うことも辞さぬという風がある。これはもともと彼らが山野を生活の場とし、芸能ことに舞や踊りの芸によって農民たちを祝福することによせて自ら衣食する、いわゆる芸術売買の徒であったからであろう。武芸もまた芸術の一種である。その一部はついに歌舞伎一座にまで発達したが、時と処とを得なかった者は近世社会の組織化に伴って「人入れ稼業」から侠客へ、さらに博徒暴力団といった暗黒面に入ってゆかざるを得なかったといえる」    


青空文庫というサイトで大概の著述がタダで読める。
20数年ぶりに改めて読んでみて、さして長くもない文章だが実に深い日本文明論になっていることに感銘を受けた。
引用して適宜、解説を加えたい。御笑覧あれ。


ごろつきの話
折口信夫

 

ごろつきが発生したには長い歴史があるが、其は略する。此が追々に目立つて来たのは、まづ、鎌倉の中期と思ふ。そして、其末頃になると、此やり方をまねる者も現れて来た。かくて、室町を経て、戦国時代が彼等の最跳梁した時代で、次で織田・豊臣の時代になるのだが、其中には随分破格の出世をしたものもあつた。今日の大名華族の中には、其身元を洗うて見ると、此頃のごろつきから出世してゐるものが尠くない。彼等には、さうした機会が幾らもあつたのだ。此機会をとり逃し、それより遅れたものは、遂に、徳川三百年間を失意に送らねばならなかつたのであつた。

 

     二 巡遊団体の混同

 

先、彼等は、どんな動き方をして現れて来たかを述べよう。
日本には、古く「うかれ人」の団体があつた事を、私は他の機会に述べてゐる。異郷の信仰と、異風の芸術(歌舞と偶人劇)とを持つて、各地を浮浪した団体で、後には、海路・陸路の喉頸の地に定住する様にもなり、女人は、其等の芸能と売色とを表商売とするやうになつたのであつたが、いつか彼等の間にほかひゞとの混同を見るやうになつた。大和朝廷の統一事業と共に、失職した村の神人たち、或は、租税を恐れて、自ら亡命したものなどがあつて、山林に逃げ込み、地方を巡遊したりしたものがあつたからだ。

一方、うかれ人の方も、漸次生活が変化して行つたが、何と言つても、彼等は奴隷としての待遇しか受けることが出来なかつた。

 

↑昔、大分県の人形回しの神社を訪ねたことがある。宮司はじつに親切な人で、人形回しに興味があるという私に、その神社の由来、歴史、現状などを語ってくれた。ただ、最後に、地元の人からの賤視に対してずいぶん憤っておられた。

 


かうして、此二者は早くから歩み寄つてゐたのであつたが、更に、平安朝の末に至ると、愈其等のものが混同し、同化するやうになつた。行基門徒の乞食・陰陽師・唱門師・修験者など、さうした巡遊者が続出したからであるが、尚、それの一つの大きな原因は、貴族の勢力が失墜すると同時に、社寺の勢力も亦衰頽を来した為、其等の社寺に隷属してゐた奴隷たちが、自由解放を行うた事である。其等の社寺には、神人ジンニン・童子などゝ称し、社の祭事・寺の法会などに各種の演芸を行つたものが居つたが、彼等は生活の不安を感じ出した事によつて、其等の社寺を離れ、各自属した処の社寺の信仰と、社寺在来の芸能とを持つて、果なき流浪の旅に上る様なことになつた。彼等は、山伏し・唱門師の態をとつて巡遊したのであつた。在来の浮浪団体に混同したのは、当然のことである。

 

更に、此頃になつて目立つて来た、もう一つの浮浪者があつた。諸方の豪族の家々の子弟のうち、総領の土地を貰ふことの出来なかつたもの、乃至は、戦争に負けて土地を奪はれたものなどが、諸国に新しい土地を求めようとして、彷徨した。此が又、前の浮浪団体に混同した。道中の便宜を得る為に、彼等の群に投じたといふやうなことがあつたのだ。後世の「武士」は、実は宛て字である。「ぶし」の語原はこれらの野ぶし・山ぶしにあるらしい。又、前の浮浪者とても、元来が、喰はんが為の毛坊主商売なのであつて見れば、利を見て、商売替へをするには、何の躊躇もなかつた。

 

     三 野伏し・山伏し気質

 

彼等は、先、人里離れた山奥に根拠を据ゑ、常には、海道を上り下りして、他の豪族たちの家々にとり入り、其臣下となり、土地を貰ひなどしたのであつたが、又中には、其等の豪族にとつて替つたものなどもあつた。
彼等が、豪族にとり入つた手段には種々あるが、一体に、彼等が道中したのは、武力で歩いたのではなく、宗教を持つて歩いた。行法を以てした山伏しである。
義経が奥州へ落ちる時、山伏し姿で道中したのは、後の人から見れば、つくり山伏しであるが、当時としては、道中をするには其が普通だつたとも見られる。
彼等は団体をなして歩いた。山伏しについては、曾て「翁の発生」の中でも触れて置いたが、彼等が団体的に行動するなどゝいふことは、平安朝の頃まではなかつたのであつたが、時代の刺戟は、彼等を団体的に行動せしめるやうになつたのである。虚無僧・普化僧は、其一分派である。即、禅宗に結びついて出来たものである。彼等は単独の形をとつた。これの著しく目立つて来たのは、略、南北朝頃と思はれる。

 

彼等の団体には取締り監督があつた。先達が、其である。彼等は行く先々の家々村々を祈つて歩いた。彼等は、其で易々と糊口の道が得られたのであつた。若し、其等の家々村々でよくしないと、彼等は祈りの代りに呪ひをかけた。山伏しが逆法螺を吹くといふ事は、後々までも恐しい事にされてゐた。山伏しの悪業は近世ほどひどくなつたのであつたが、昔から、依頼と恐怖との二方面から見られてゐた。だから、彼等は易々と道中する事が出来たのであつた。

 

  四 治外法権下の悪業

 

昔から、宗教の方面には、政治の手が届かなかつた。其には理由があるので、言はず語らずの掟があつて、彼等は全く政治家の権力以外を行つた。江戸時代になつてからも、寺社奉行などはあつたが、山伏しの取締りには、随分幕府も困つた様である。駈落者・無宿者・亡命の徒などが彼等の中へ飛び込めば、政治家も、其をどうする事も出来なかつた。こんな事は以前からもあつた。だから、武力を失うたものが、逃避の手段として、山伏しになつたなどゝいふのが少くない。前に述べた様な理由と、二重の理由によつて、易々と生活して行けたからである。

 

更に、彼等は後々までも、殊に徳川初期に於て諸大名たちを弱らせた事実に就ても、考へて置かねばならぬ。彼等が大名たちを弱らせたには、弱らせるだけの理由があつたと見られる。諸大名が出世をしたには、皆彼等の手を借りてゐる。彼等は、戦国の当時には、殆ど庸兵として、諸国の豪族に腕貸しをしてゐる。後に大名になつたもので、彼等の助力を受けてゐないものは殆ど一人もない、と言うてよからう。又、彼等の中から出世したものもある。上州徳川の所領を失うたといふ徳阿弥父子が、三河の山間松平に入り婿となる迄の間は、遊行派の念仏聖として、諸方を流離したのであつた。江戸時代になつて、虚無僧は幕府から朱印を貰うたといふが、其には、訣があつたのだと考へられる。
かゝる事情があつた為に、彼等は後々までも我儘をし、大名たちも、其を抑へる事が困難だつたのである。それには、彼等が法力を持つてゐたことも関係してゐたと思はれる。九州彦山の山伏しが虐殺されたことがある。如上の理由があつて、あまりに彼等の我儘が募り、悪業が高じた為だと思はれる。


又、彼等の中から出世したものもある。上州徳川の所領を失うたといふ徳阿弥父子が、三河の山間松平に入り婿となる迄の間は、遊行派の念仏聖として、諸方を流離したのであつた。

 

↑昭和3年に、さらっとこういうこと書いてるということは、『史疑・徳川家康事蹟』明治35年 村岡素一郎の存在はもちろん知っているということだ。

 

三河の山間松平に入り婿となる迄の間は、

 

↑ただ、ここは『史疑・徳川家康事蹟』明治35年と違っている。初めて聞いた話である。これはもしかすると今でいうところの「自主規制」?

 

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     五 祝言職としての一面

 

彼等はさうした法力を示してゐたが、山伏しの為事は、其だけではなかつた。常には、舞ひや踊りや歌をやつた。
彼等は、前にも言うたやうに、山奥に根拠を据ゑてゐた。私は幾度か三河の山奥へ行つたが、参・遠・信の三国に跨り、方五六里に亘つて、さうした山伏し村が多い。勿論、今は山伏しの影を止めてゐるに過ぎない。私たちが見学に行つたのは、既に「翁の発生」で述べて置いたやうに、其等の村に「花まつり」と称する初春の行事があつたからである。花まつりは、一口にいへば、其年の稲の花がよく咲く様にと祝コトホぎする初春の行事なのだが、其態は舞踊であつて、なか/\発達してゐる。

 

何故、こんな山奥に、こんな舞踊が発達したか。其は決して偶然ではなかつたと考へられる。即、戦国の末に、彼等が勢力を貸した豪族の家々が、其後栄えたからである。歴史の表面では、彼等がどれだけの事をしてゐるか、殆ど記されてゐないが、断篇的の記録はある。三河には徳川氏と関係ある地方に居つた者が多くゐて、徳川氏が栄えて後、擁護を受けたからである。

 

彼等は、戦争に際しては、其等の家々に勢力を貸したのであつたが、また初春には恒例として、其等の家々、即、檀那の家へ出て来ては、祝福をして行つたのである。ほかひ人としての、昔の記憶を忘れなかつたのである。
由来、日本の戦争には、法力の戦争が栄えた。旗・差し物なども、それから生れたものである。此には長い歴史があるが、其は略する。ともかくも、彼等が戦争に勢力を貸したといふのは、法力で戦争を勝たせるのが主であり、本筋のものだつたのである。

 

↑法力で戦争を勝たせるのが主であり、本筋のものだつたのである。

 

これは本当。栃木県の足利学校でも占術、うらないが重要視された。現実に実際に、武田や上杉は占い師を戦に帯同させてた。
最後はやっぱり、当たるも八卦当たらぬも八卦ということか。


私たちが見学に行つたのは、既に「翁の発生」で述べて置いたやうに、其等の村に「花まつり」と称する初春の行事があつたからである。花まつりは、一口にいへば、其年の稲の花がよく咲く様にと祝コトホぎする初春の行事なのだが

 

↑昭和の始めに奥三河の山の中でまさに「発見」され、山の中で発見された割に、洗練されており、ドラマチックであり、東京にそのまま持ってきてレヴューにもなった「花祭り」。これはいったい何なのかという疑問が膨らみ、研究書も書かれたが、これは傭兵の村だったという折口信夫の見立てがたぶん正解であろう。

 

  二〇 気分本位の生活

 

一例を挙げるなら、北条早雲が三浦荒次郎を攻めたとき、三浦の城が落ちると聞くや、早雲の家来十幾人は、三浦方の方を向いて、割腹した。此は嘗て、三浦方に捕はれたとき、彼方で好遇を受けた其恩に感じたのだと言ふ。今日、それだけの雅量あるものが、果してあらうか。

後世の侠客・ごろつきの中には、多少それに似た道徳感が流れてゐた。睨まれゝば、睨み返すのが、彼等の生活であつた。即、気分本位で、意気に感ずれば、容易に、味方にもなつたが、また直に、敵ともなつた。我々が、多少でも、かうした気分を味ひ得たのは、釈場に於てゞあつたが、それも、今日では極めて淡いものになつてしまうた。時代々々の道徳の力は、あらゆるものを変化せしめずには置かない。同時に、時代々々の文芸・芸術は、此と交渉なしには生れない。現代の道徳は立派であると言へよう。だが、今日では、多少、それが固定したと思はれる。随つて、感激性を失つた。
現代の文芸・芸術が、此を重視しなくなつたのには、さうした理由があるのだと思はれる。

 

     二一 結び

 

話が、かなり岐路に分れたと思ふが、要するに、日本のごろつきには古い歴史がある。而して、鎌倉以後は、此が山伏しと結びつくやうになつて、著しく社会の表面に顔を出す様になつた。法術を利用して、大名にとり入るやうになつたからである。

併し、彼等が根拠地としたのは山奥で、常には、舞ひや踊りを職業とし、年の始めには、檀那の家々を祝福して廻りもしたので、其中には、山奥に残るものもあり、里に出て来たものもあり、里に出て来たものゝ中には、大名となり、また其臣下となつたやうなものもあつたが、遂に、其機を逸したものは、徳川の初期に於て人入れ稼業を創始して、大名・旗本に対しても、横柄を振舞つた。

 

歌舞妓芝居は、彼等の間に生れた芸術で、それには幸若舞が与つて、大きな力を致してゐる。
歌舞妓芝居は、其後非常な発達をして、もはや、昔の俤は止めぬほどになつてしまうたが、それでも尚、此等の、発生当初のものとの関係は、全然、別れ切りにはならなかつた。其間に纏綿たるものゝあつた事は考へなければならぬ。
尚、無頼の徒の芸術には、文学方面にも、言及すべきものがある。

 

日本の文学は、王朝時代に於ける女房の文学に始まり、次で隠者の文学が起り、此にごろつきの文学が提携し、此等のものゝ洗礼を受けて生れたのが、即、江戸時代の町人文学である。此等の点については、いづれ細論する日もあらう。茲には無頼の徒の芸術として、歌舞妓芝居の発生を述べた。大体、其特色は尽した積りである。

 

↑半分だけ、まるまる貼ったが実に深い日本文明論になっていることに感心した。
やはり、柳田国男折口信夫の両巨頭は定期的に読まなければならないと痛感した次第。