家康の正妻 築山殿: 悲劇の生涯をたどる (平凡社新書 1014) 2022/黒田 基樹 (著) 平凡社  著者が幻の奇書『史疑・徳川家康事蹟』をどう思っているのかに興味が湧く

今川家御一家衆・関口氏純の娘で、従属国衆・松平元信(徳川家康)の最初の妻・築山殿。
今川家との敵対による互いの立場の逆転と、長年にわたる別居状態にともなう信頼関係の希薄化から、嫡男・信康に対する思いを強くしていくが、二つの事件によって、終幕を迎える……。
信頼に足る後世史料を丹念に読み解き、信康「逆心」事件の実態と築山殿の死の真相を探る。


当時、大岡弥四郎事件というものが起こったらしい。
徳川家内部での謀反事件である。
どうやらそれに築山殿が絡んでいたらしい。
国境を接して緊張状態にあった武田氏の勝頼と内通していたらしい。
もうちょっとで成功するところであったと。
成功していたら、徳川家270年の栄光はなかったであろう。


正妻と実の息子を自害(処刑)せしめる。
戦国時代にも他に例がないみたいだ。
しかも、息子の信康は、当時、織田信長の長女、五徳と結婚しており、織田信長の了解を得る必要があった。
しかも、信康は戦国武将として二十歳そこそこなのに、毎日のように出陣しており、世評も高かったと言う。
どう考えても、放逐くらいでいいのではないか。
常識的に考えるとそうなる。


だからやはりこの「事件の真相」は、徳川家康と、築山殿、信康は、赤の他人だったのではないかという疑念が出てくる。
史料も残っていないのによくまとめたと感心するが。
幻の奇書『史疑・徳川家康事蹟』によれば、実の正妻と、実の家康にとっての初子を自ら処刑するなんてありえないのではないかという部分が基調になっている。

 

2023-10-24
キーワードで読み解く北朝鮮体制(レジーム)の起源とその行く末 藤井非三四/著 国書刊行会 2019.10
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/10/24/182325

 

唐突に、これを思い出した ↓

三百年のベール―異伝 徳川家康 (学研M文庫)  2002/2/1 南条 範夫 (著)
家康の出生の秘密に端を発して、徳川300年にわたる身分社会のベールが大胆な構想と縦横無尽な筆致によって暴かれる。明治35年に刊行された『史疑』を素材に、闇に葬られた真相を解き明かす南條文学の傑作。
静岡の県吏・平岡素一郎は、ふと目にした史書の一節をきっかけに、将軍徳川家康の出自と生涯の秘密を探りはじめる。やがて、驚愕の真相が浮かび上がった―。「家康は戦国大名松平家の嫡子ではない、流浪の願人坊主だったのだ」。そして、その隠された過去からは、さらに意外な歴史が明らかにされてゆく。明治に実際に刊行された幻の奇書『史疑・徳川家康事蹟』を素材に、大胆な構想で徳川家300年のタブーに挑んだ、禁断の歴史ミステリー。

 

↑これは、ほぼ史実であろう。明治35年に、徳富蘇峰の経営する民政社から発刊。だが、すぐ、徳川家の弾圧により発禁本となる。
 隆慶一郎の傑作「影武者徳川家康」がここから想を得ているし、漫画「カムイ外伝」がそうである。ベースとなるアイデアはここから取っている。

 

↑著者・黒田氏は、そういう胡散臭い資料はいっさい持ち出さず(笑)、本書をまとめている。

ただ、黒田基樹氏が『史疑・徳川家康事蹟』をどう思っているかに興味がある。
私は、真実だと思っている。
だから、本書を読んでいる最中も、いつの時点で、松平元康(徳川家康)に成り代わったのかにずっと興味が集中していた。


史疑幻の家康論 礫川全次/著  批評社2000.2

 

↑『史疑・徳川家康事蹟』を徹底解説した名著から、引用する。

「……その時に天の助けが来たのである。信長の方から、友好の申し出があったのである。元康(じつは元信)はよろこんでこれに応じ、清須城訪問となった。
和議は成立し、永禄5年(1562)4月に、にせの元信、世良田二郎三郎元信は、松平蔵人家康と名を改めた。
信長の一字をつけて竹千代を信康と名付け、信長の娘である9歳の特姫・五徳とめあわせた。
こうして、松平家康の時代となったのである。

 

一方、岡崎の旧臣たちは、朽木が倒れるようにしだいに後を絶っていった。
重臣の酒井将堅忠尚は、家康の下風に立つのを憤り、反逆をくわだてたが、敗れて、猿投山の山里に隠遁した。
松平信孝も反逆をくわだて、明大寺村で討ち死にした。
水野信元は讒訴されて殺された。
最後に反家康の旧臣を一掃したのは、一向宗門徒一揆である。
家康公に反抗するものはほとんどこの一揆に加わって、ほろぼされた。」

 

第8章  悲劇の解明

この悲劇に対する村岡の解釈は明快である。
築山殿にとって家康は「夫」ではなく、夫の「替え玉」であったに過ぎない。
だからこそ、「敵将」武田勝頼との謀議がありえた。


永禄7年(1564年)、今川氏真が家康討伐の意向を示すと、酒井忠尚や吉良義昭ら三河国内の反家康勢力の国衆が挙兵し、続いて三河一向一揆が勃発するも、これを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。遠江国で発生した国衆の反乱(遠州忩劇)の影響で三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この際に家康は、西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))・東三河衆(旗頭:酒井忠次)・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には旗本先手役を新たに置いた。

 

「徳川」への改姓
永禄9年(1566年)、家康は朝廷から藤原氏として従五位下三河守に叙任され、その直前、あるいは同時に苗字を「徳川」に改めている。

この改姓を朝廷に願い出る際にはいくらかの工夫を要した。松平家は少なくとも清康の時代から新田氏支流世良田氏系統の清和源氏であると自称していたが、当初は正親町天皇清和源氏世良田氏三河守に任官した先例がないことを理由にこの叙任を認めなかった。そこで家康は三河国出身で京誓願寺住持だった泰翁を介して近衛前久に相談した。

 

↑成り代わったとしたらここしかない。一向一揆鎮圧から、徳川へと改名時があやしい。とにかく、戦国時代、随一の混乱地帯である。何が起きてもおかしくない。

 

この際に家康は、西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))・東三河衆(旗頭:酒井忠次)・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には旗本先手役を新たに置いた。

 

↑この旗頭:石川家成はのちに家康とたもとを分かっている。にせものと知っての行動から、たもとを分かったのではないか。たもとを分かって、豊臣秀吉についた。

子孫は松本の温泉守として健在。本当にこの件、知りたければ石川氏の子孫に、何か伝わっていますかと聞きに行くのも有りではないだろうか。

 

世良田村事件(せらだむらじけん)とは、1925年(大正14年)に群馬県新田郡世良田村(現・太田市世良田町)字下原の被差別部落で起きた騒擾事件。世良田事件、世良田村水平部落襲撃事件[1]などとも呼ぶ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%89%AF%E7%94%B0%E6%9D%91%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

↑大正時代、水平社の運動のきっかけとなった事件。

 

松平家は少なくとも清康の時代から新田氏支流世良田氏系統の清和源氏であると自称していたが、

 

↑履歴を固めるために、あの天海僧正が暗躍している。にせ系図を作っている。

 

2023-10-04
天海・光秀の謎―会計と文化 1993/岩辺 晃三 (著)税務経理協会 「天海・光秀同一説」 大いにあり得ると思ってる…
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/10/04/165934


この論点、掘れば掘るほど深い闇がある…

 

ただ唯一、理解できない、わからないところとして、松平元康が徳川家康に成り代わったとして、まるっきり別人がいきなり「おれが松平元康」だと、名乗りを上げたとして、納得できない人はいなかったのかというところだ。

だから、初期徳川家康の取り巻きの数人はこの事実を知っていた。なにも、すべてを徳川家康ひとりで行ったことではない。
それは不可能だ。
ホントの松平元康の側にも、「こいつに賭けてみよう」と思った旧臣がいたに違いない。
そういった「共同作業 共同謀議?」の結果としての、流浪の願人坊主・徳川家康であったに違いないと私は考えている。

 

フレデリック・フォーサイスの傑作「ジャッカルの日」のラストシーンを思い出す。
墓場で葬られる「ジャッカル」
彼を追った警部と部下の会話。

 

「……ジャッカルとはいったい何者だったんですかねえ……」

 

shizuoka.veritas.jp

↑ このサイトが複雑な問題を簡潔にして、よくまとめている。

 

ja.wikipedia.org