キーワードで読み解く北朝鮮体制(レジーム)の起源とその行く末 藤井非三四/著 国書刊行会 2019.10

北朝鮮の誕生から現在までを達意の筆で描いている。
北朝鮮に関してはまったく知らない国だったので非常にためになった。
中でも興味をそそられたのは、金日成主席の正体に関することである。
ソ連が連れてきた影武者説というのは薄っすらと知っていたが、4つの説があるということは本書で初めて知った。

 

第1章 再検証されるべき「金日成神話」より

これまでも「金日成とは、本当はだれなのか」との疑問は提起され続け、その真実を探る研究も進められていた。
特に1990年9月の韓ソ国交樹立、翌91年の12月のソ連邦崩壊後は、旧ソ連側の資料が入手できるようになったため、金日成の実像が明らかになりつつある。ーー中略ーー
しかし、この金日成神話が完全に打破して否定されない限り、今日、より深刻化している朝鮮半島情勢の混迷は、根本から解決しえない。
このビッグネームが秘める心理的効果を十二分に活用したことこそが、常識が通じない異様な国家の構築を可能にしたのである。


公式的には、1935年の秋、関東軍満洲国軍は、満洲東部で大規模なパルチザン討伐の粛清作戦を行った。
これによって多くの根拠地を失った中国共産党満洲省委員会は、「1936年度、軍事行動指針」を定め、その武力組織である東北人民革命軍の編成と配置を変更することとなった。そして、のちに鹵獲された書類によると、この総指揮部政治委員、部隊責任者は「金日成」となっていた。
これが文書で確認された漢字による金日成の初見とされる。

 

そして時はすぎ日本の敗北が決定した後、1945年10月14日、金日成将軍の平壌凱旋が伝えられると、一帯は大いに盛り上がった。
「それ見たことか、キム・イルソン将軍は健在だった」ということだが、続報が入ると熱気は大いにしぼんだ。
金昌希の子供のころから知っているという古老がいるのだから、「キムイルソン将軍が30代前半であるはずがない。将軍は高宗21年の生まれだ、平壌のあれは偽物だ」となり、この話もすぐに広まった。


唐突に、これを思い出した ↓

 

三百年のベール―異伝 徳川家康 (学研M文庫)  2002/2/1 南条 範夫 (著)
家康の出生の秘密に端を発して、徳川300年にわたる身分社会のベールが大胆な構想と縦横無尽な筆致によって暴かれる。明治35年に刊行された『史疑』を素材に、闇に葬られた真相を解き明かす南條文学の傑作。
静岡の県吏・平岡素一郎は、ふと目にした史書の一節をきっかけに、将軍徳川家康の出自と生涯の秘密を探りはじめる。やがて、驚愕の真相が浮かび上がった―。「家康は戦国大名松平家の嫡子ではない、流浪の願人坊主だったのだ」。そして、その隠された過去からは、さらに意外な歴史が明らかにされてゆく。明治に実際に刊行された幻の奇書『史疑・徳川家康事蹟』を素材に、大胆な構想で徳川家300年のタブーに挑んだ、禁断の歴史ミステリー。

 

↑これは、ほぼ史実であろう。明治35年に、徳富蘇峰の経営する民政社から発刊。だが、すぐ、徳川家の弾圧により発禁本となる。

隆慶一郎の傑作「影武者徳川家康」がここから想を得ているし、漫画「カムイ外伝」がそうである。ベースとなるアイデアはここから取っている。

 

ただ唯一、理解できない、わからないところとして、松平元康が徳川家康に成り代わったとして、まるっきり別人がいきなり「おれが松平元康」だと、名乗りを上げたとして、納得できない人はいなかったのかというところだ。

だから、初期徳川家康の取り巻きの数人はこの事実を知っていた。なにも、すべてを徳川家康ひとりで行ったことではない。
それは不可能だ。
ホントの松平元康の側にも、「こいつに賭けてみよう」と思った旧臣がいたに違いない。
そういった「共同作業 共同謀議?」の結果としての、流浪の願人坊主・徳川家康であったに違いないと私は考えている。

 

フレデリック・フォーサイスの傑作「ジャッカルの日」のラストシーンを思い出す。
墓場で葬られる「ジャッカル」
彼を追った警部と部下の会話。

 

「……ジャッカルとはいったい何者だったんですかねえ……」


併せて読みたい

 

日本軍とドイツ軍 どうしたら勝てたのか、どうやっても負けたのか? Kindle版 藤井非三四 (著)  2014 学研パブリッシング
なぜ連合国はドイツを恐れ、日本を軽く見たのか?「勝ちそうだったが勝てなかったドイツ軍」と「勝てそうにないまま負けた日本軍」の真の敗因を探る。

 

戦争について語られてること、書いている本は数多いが、この人の目の付け所は一風変わっているし、他の論者では見かけない点を書いている。
全著作、興味深いがここでは特に、本書から敗北にまでつながったと思われるドイツ軍の人種差別について。
■判断を狂わせる民族蔑視
ソ連邦の中にはソ連の支配を嫌ってナチスドイツに味方する者も多くいたという。それは「ヒーヴィ」と呼ばれ、その数32万人にも達した。
試行錯誤の果てに、ヒーヴィに武器を持たせ師団を組織し始めたのは1945年の2月になってから。すべてが遅すぎたのである。


レアメタル」の太平洋戦争 なぜ日本は金属を戦力化できなかったのか 藤井 非三四 (著)  学研プラス 2013
仮に当時の日本に資源が潤沢にあったとしても、やはり太平洋戦争には負けているだろう。それは「いかに金属を戦力化するか」、つまり「金属で優れた兵器を効率的にたくさん作る」という根本的な戦争の手段において、日本は太刀打ちできなかったからである。