大陸打通作戦(1944)と日本乞師(にほんきっし・1645~) 「シナ人に、ちょうせんじん、夜盗(反日バカサヨク)どもに言いたいのはな、日本人を怒らせるな、それだけだ…」

劣勢を挽回しようとして立案された日本陸軍の、いわゆる大陸打通作戦(一号作戦)が、その後の世界情勢に及ぼした影響について大いに目を開かせられるところがあった。

日本軍の目的は、当時日本海軍の艦船や台湾を攻撃していた爆撃機を阻止するために、中国内陸部の連合国軍の航空基地を占領することと、日本の勢力下にあるフランス領インドシナへの陸路を開くことであった。日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、日本陸軍が建軍以来行った中で史上最大規模の作戦であった。

 

2023-08-27
文庫 鳥居民評論集 昭和史を読み解く (草思社文庫) 2016/4/2 「いままで誰も書かなかったこと」 ← これ凄い
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/08/27/061939?_gl=1*7sqg41*_gcl_au*MTU5NTY5ODMwNi4xNjkyNjEzNDQz


バーバラ・W・タックマンの研究によれば、この作戦の結果は日本側の想像以上にその後の戦況に重大な影響を及ぼし、かつ日本の命運にも決定的な影響を与えたという。
フランクリン・ルーズベルトは、開戦以来一貫して蔣介石を強く信頼しかつ支持しており、カイロ会談の際に、蔣介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、本作戦により蔣介石の戦線が総崩れになった事でその考え方を改めたという。実際、これ以降蔣介石が連合国の重要会議(「ヤルタ会談」と「ポツダム会談」)に招かれる事はなくなった。

 

スティルウェル文書によると、「中国は勝てるか」と述べたルーズベルトに対し、スティルウェルは「蔣介石を排除するしかない」と述べ、1944年の衡陽会戦に際しては夜も眠れず、2回も自殺を考えたと言う。アメリカ側も蔣介石の暗殺を計画し、「毒殺」、「航空機事件」、「自殺に見せかける」という三方法が検討された]。

ルーズベルトの配下のジョージ・マーシャル陸軍参謀総長やジョセフ・スティルウェル将軍がかねてより主張してきた通り、実は蔣介石の軍隊は軍隊の体をなしていない士気の沮喪したどうしようもない腐敗した組織であり、とてもアメリカをはじめとした連合国軍と共に戦う意欲もなければ、その能力もないことが明らかになったのだという。


歴史をさかのぼってみると、似たようなことが起きていたことに気づかされる。
それはかつてのシナの明朝の崩壊と、清朝の台頭である。

日本乞師(にほんきっし)は、明の滅亡後南下してきた清に対抗する南明及びその支持勢力(鄭氏政権など)が日本(江戸幕府)に対して軍事支援を求めた行動。

 

1644年(日本の正保元年)、李自成率いる大順が明の首都・北京を制圧して明朝最後の皇帝崇禎帝が自害すると、清が満洲より南進し、大順軍を破って北京を制圧し、そのまま旧明領制圧の軍を進めた。これに対して華中・華南では、明の皇族を擁立して「反清復明」を唱え、清への抵抗と明の再興を目指す南明勢力が形成された。彼らは近隣で相当の軍事力を保有していた日本に軍事支援を求め、連合して清軍を駆逐することによって明朝再興を果たそうと考えた。

 

1645年に鄭芝龍及び崔芝が、相次いで日本に軍隊派遣を要請する使者を送った。以後、鄭芝龍の子・鄭成功及びその子鄭経と3代にわたって、軍事支援を求めて1674年(日本の延宝2年)まで30年間に10回の使者を日本に送った。また、この他にも黄宗羲ら明朝再興を働きかける人々によっても使者が派遣されたが、既に鎖国体制に入っていた江戸幕府は軍事的な支援には否定的であり、貿易などの形式で倭刀などの武器や物資の調達を許すことはあっても、支援そのものには黙殺の姿勢を貫いた。また、琉球王国(同国及び薩摩藩を経由した江戸幕府への支援要請も含む)や南洋諸国、遠くはローマ教皇庁まで乞師の使者を派遣したことがあったが、いずれも不成功に終わった。

 

時の政権 徳川幕府は、三代家光の時代であったが、外国からの援軍要請という初めての事態に衝撃が走った。
この要請を受けるべきか、拒否するべきか、
幕府内を二分する激論が展開された。
尾張紀伊、水戸など徳川御三家薩摩藩は賛成し、幕閣の松平定綱や井伊直孝らは反対した。
反対派はその根拠として、かつて、太閤秀吉が明国征服の足掛かりに朝鮮半島に出兵した際、泥沼の戦いとなって、動員された大名家がひどく疲弊したことを挙げた。

その中で、血気盛んな若き将軍家光は、
“隣人の窮地を救うのは正義である”として、出兵に乗り気であった。

 

幕府による大陸出兵は、ついに行われなかった。
その理由は諸説あるが、南明に勝ち目はないとの情報がもたらされ、
幕府が清国との関係の方を重視したためともいわれている。

 

なぜ、明朝は衰退を始めたかといえば、主因は豊臣秀吉の朝鮮征伐、文禄慶弔の役である。25万を超える人員を投入し、膨大な支出が無駄になった。

明が清(ヌルハチ)に倒されたのは秀吉の朝鮮征伐が遠因。
日本軍の高性能の鳥銃(鉄砲のこと)にやられまくって、財政、民心ともに疲弊したから。
あと、明の国師が3代将軍家光に会いに来て派兵を嘆願してる。
とうぜん拒絶
明朝崩壊
最後の皇帝は雲南の山奥で首を吊って自害。

19世紀末の歴史家であるジョージ・H・ジョーンズによって推定された軍人と民間人の犠牲者は100万人である。
合計10万人以上の日本側の死者数と仮定すると、朝鮮・明側の死者数は90万人と推定できる

 

自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。

日本軍が7年間にわたり朝鮮半島を侵略して以来、数十万人のシナ人、朝鮮人が殺害され、莫大な富が失われたが、シナ人、朝鮮人、そして属国には勝ち目はない。無駄死にしても不幸は止まない。
—『明史・朝鮮伝(漢文)』

 

明への影響
朝鮮への援兵を、同時期に行われた寧夏の哱拝の乱、播州の楊応龍の乱の2つの反乱の鎮圧と合わせて、「万暦の三大征」と呼んでいる。『明史』王徳完伝によると「寧夏用兵(哱拝の乱)、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役(楊応龍の乱)二百余万」、『明史』陳増伝には「寧夏用兵(哱拝の乱),費帑金二百余萬。其冬。朝鮮用兵,首尾八年,費帑金七百余萬。二十七年,播州用兵(楊応龍の乱),又費帑金二三百萬」とあり、数字に違いはあるが、万暦の三大征の中でもこの戦役が哱拝の乱と楊応龍の乱とは比較にならないほど財政上に大きな負担であったと認識されていたことが窺える。

これらの膨大な軍事費の支出および戦死者を出したことと皇帝万暦帝の奢侈は明の国力を食い潰し、17世紀前半の女真の強大化に耐え切れないほどの、明の急速な弱体化の重要な原因となったと考えられている。


さいきん福島原発の処理水を、非難するシナ人、ちょうせんじん、夜盗の発言が目立っている。
神の国、日本のやることに逆らうな、私が言えるのはそのことである。


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併せて読みたい

明末清初日本乞師の研究 (1945年) 石原 道博 (著) 冨山房

 

↑日本乞師といっても、参考文献は1945年に書かれたこれ一冊しかない状況。


2023-06-12
長崎清国水兵争闘事件「再考」 明治19年。 それは、明治の「元寇」だった!
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/06/12/025318
原因があるから結果がある。
日清戦争に関しては、原因は長崎清国水兵争闘事件だ。はっきりしてる。
その根本のそもそもの原因がおざなりにされてる現状を深く憂いてこれを書く。

 

参考文献といえばなんとひとつもなく、
参考論文といっても以下のたった2つしか書かれていないという惨状!!

安岡昭男「明治十九年長崎清国水兵争闘事件」法政大学文学部紀要36、1990年
朝井佐智子「清国北洋艦隊来航とその影響」愛知淑徳大学現代社会研究科研究報告4、2009年

過日、百田尚樹氏の「日本国記」を読んで、救国の英雄・北条時宗が無視されている現況の「GHQ洗脳日本サヨク教育」に対して大いに義憤を感じたことを想起する。

 

日本、大丈夫か?
心配になってきた。