古代の新羅王国 1974 新人物往来社 泊 勝美 (著)「異形」の古墳 朝鮮半島の前方後円墳 (角川選書) 2019/高田 貫太 (著)KADOKAWA 「再考」

2023-08-23https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/08/23/162747
「九州王朝論者」からみた、南韓半島に残る前方後円墳について「再考」


本書「古代の新羅王国1974泊 勝美 」は、なんとアマゾンでも出てこない。内容はそんなにマイナーかと思いきやそんなことはない。それどころか内容豊富である。夕刊フクニチ新聞、編集部長。九州在住。

1932年生まれ。まあ、この年代の有りがちな「アジアへの贖罪」に駆られた人ではある。ただ、とはいえ書くものはしっかりしている、と私は信じている(笑)。


今回この場では2つ取り上げたい。
太宰府観世音寺に残る日本最古の鐘・梵鐘とそれに残されている刻印についてである。
この梵鐘には銘がないが、いたずら書きのような印刻の文字が3か所にある。

 

「第二の銘は、梵鐘右前方の小口にありて、「上三毛」の3字を見るのみ」
                  考古学者・中山平次郎 大正5年

 

謎を解くカギは、これまた北部九州に残る日本最古の戸籍である。
「上三毛」とは、豊前国上三毛をさし、そこは秦氏の集住地であった。
具体的に名前までわかっている。

鋳工や銅工だらけである。
しかもここは少し行った北部に香春岳という銅山がある。
「上三毛」とは、北部九州豊前国のことである。

 

しかも敢えて付け加えれば、ここは「隋書倭国伝」の「秦王国」である。
隋書俀国伝(貞観二年(628)唐の時代の書物) 

「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を使者として倭国へ派遣した。百済へ渡り、竹島に至る。
南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至り、またチクシ国へ至る。
また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。
チクシ国以東はみな倭に付属している。」


謎の八幡信仰について
日本で一番多い八幡信仰(宇佐神宮)の総元締めである。
しかし、この神社、謎が多い。謎だらけである。
発祥からしてわかっていないことが多すぎる。

 

文献的には、844年にできた「八幡宇佐宮弥勒寺建立縁起」が最も古いらしい。
844年とは、新しすぎる。
肝心なことが書かれていない畿内ヤマト政権の工作だらけの書である。

 

3神を祀っていて真ん中に、八幡大神誉田別尊応神天皇)、
左右に、比売大神(ひめおおかみ)と、神功皇后

比売大神というのが出所由来がわかっていないという不思議。
ズバリ言おう、この比売大神が卑弥呼ではないか。


何らかの先行した文明体が北部九州にあったのは明白ではないだろうか。

 

歴史は勝者のものである。
とくに「日本書紀」における朝鮮関係、対百済の記事は九州王朝のものをそのまま(あるいは可変して)流用した可能性が強いと思っている。

一例挙げる。

百済が我が国を指していう「貴国」という表現がある。
これは礼称ではなく、一般固有名詞である。
日本書紀に頻出する。

https://tsukudaosamu.com/pdf/4-2.pdf  
PDFだがこの論考が微に入り細に入り、貴国が畿内ヤマト政権のことではなく、北部九州に存在した王権であることを解き明かしている。
この論考、実に説得力に富むが、中から一例だけ挙げる。

 

雄略天皇はある時葛城山へ登った。すると同じように葛城山を登る一行と出会う。
自分 (雄略天皇)と同じ装いを しているのでそれを咎めようとする。ところが相手は「一言主神」であると名乗る。
雄略天皇は急に畏れを為し、大御刀や弓矢をはじめ、百官が着ている衣服まで脱が して献上する。
雄略天皇は葛城の一言主神に服従している。葛城氏の方が力が強いからであろう。

 

奈良県の地名』 (平凡社)は一言主神について次のように書いている。
「大和志料」は、一言主神は味鉦高彦根神の分霊で、雄略天皇葛城狩猟の時に初めて一言主の名をもって出現したと解釈する。
奈良県の地名』
一言主神社雄略天皇の時にはじめて出現した神であるとしている。
一言主神は大和の葛城から発生したと解釈しているのである。

 

ところが佐賀県三養基郡三根町 (肥前国三根郡)に一言主神社がある。
福岡県朝倉郡三輪町に、葛城神社があり、祭神は一言主神である。
現在は矢俣八幡神社の外宮になっているが、由緒書きには「本社は昔、この地方に住んでいた葛城部が祀ったもので、その葛城部 というのは、日本書紀によると、仁徳天皇七年に皇后の御名代部としておかれたもののようです。
古代にはこの一帯を葛木郷と言っていたとある。

 

肥前国三根郡葛木に一言主神社がある。三根郡葛木は葛城長江襲津彦の本拠地である。
奈良県御所市にある葛城の一言主神社はここから移されたのであろう。
葛城襲津彦はここか ら奈良県の葛城へ移っている。
葛城襲津彦肥前国三根郡葛木から奈良県御所市に移り、その地に故郷と同じ「葛城 (葛木)」 の地名を付けたのであろう。
そして「一言主神」を祭った。

一時が万事である。
畿内の豪族というのは、ことごとく北部九州出身である。

 

(7)大和豪族の誕生
貴国の宿禰達は北部九州から逃げて来て大和に住み着き、そこに故郷の地名を付けた。
奈良県に葛城・羽田 。巨勢・平群 という地名があるのは九州の地名から付けられたのである。
従来は「建内宿禰後裔氏族は「大和豪族であり、大和在地の豪族であるといわれてきた。
しかし「建内宿禰後裔氏族Jは 貴国の宿禰であり、北部九州の豪族である。
北部九州から大和へ逃げてきて「大和豪族」になったのである。


畿内ヤマト政権は、「引きこもり」政権である。
金剛山地の右側に引きこもって、外敵をシャットアウト。ひたすら、大古墳を作りまくっていた。
だから、畿内ヤマト政権には水軍がない。これまでに遺跡もみつかっていない。


併せて読みたい

古代九州と朝鮮 (1973年) 泊 勝美 (著) 新人物往来社
法隆寺の中の九州王朝 (朝日文庫―古代は輝いていた) 1988/6/1古田 武彦 (著)

 

↑ほぼ同じ時代に書かれたのに、泊 勝美氏の著作に古田 武彦・九州王朝説への言及は不思議なことに一切ない。

 

2023-02-27 https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/02/27/230255
法隆寺は移築された―太宰府から斑鳩へ 1991米田 良三 (著) 新泉社 世界最古の木造建築、法隆寺五重塔や金堂は九州大宰府から移築された。

 

↑これなど、九州王朝説を証明している最たるものだ。

 

北部九州には廃寺が余りにも多い。いま、そこに乗っていた瓦の分析をやってる。例えば、椿市廃寺という寺があった。

松本清張推理小説「鴎外の婢」より。
「海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の経路に分布していることでも知られる。地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおけるイングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を喪失していることは、日本紀略枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前のうたがきがはるかに古い証である。」

 

邪馬台国の研究」(重松明久)昭和44年刊 白陵社
「神代帝都考」狭間畏三 (著) 昭39。明治32年版の再刊。
豊前王朝―大和朝廷の前身 2004/2/1大芝 英雄 (著) 同時代社