つくられたエミシ (市民の考古学) 2018/8/15 松本 建速 (著) 同成社

古代日本国が征討したとされるエミシ。しかし彼らは存在していなかった!?考古学や文献史学、言語学の手法を駆使し、隠された真相に迫る。


2018年に出版されたときに読んで、今回これを書くに際して再び読み直したが、やはり珍説・奇説に類したものだろうとの読後感を持った。
蝦夷・えみしとの抗争が律令国家とエミシとの間で実際には起きていなく、文書の中だけで存在するのだと著者は言う。
律令国家が文書上で作り出したものだと著者はいう。


俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者を指す。夷俘とも呼ばれた。
また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。

 

移配俘囚
7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争(蝦夷征伐)で、大和へ帰服した蝦夷のうち、集団で強制移住(移配)させられたものを指す。

 

官符 蝦夷 で、検索してみると、いろいろなことがわかる。  

 

俘囚となった和人
続日本紀神護景雲3年(769年)11月25日条に、元々は蝦夷ではないのに俘囚となってしまった例が記述されている。陸奥国牡鹿郡の俘囚である大伴部押人が朝廷に対し、先祖は紀伊国名草郡片岡里の大伴部直(あたい)といい、蝦夷征伐時に小田郡嶋田村に至り、住むようになったが、その子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚となってしまったと説明し、今は蝦夷の地を離れ、天皇の徳の下で民となっているので、俘囚の名を除いて公民になりたいと願い出たため、朝廷はこれを許可したと記される。

 

神護景雲4年(770年)4月1日条にも、父祖は天皇の民であったが、蝦夷にかどわかされ、蝦夷の身分となってしまったという主張があり、敵である蝦夷を殺し、子孫も増えたため、俘囚の名を除いてほしいと願い出たため、朝廷がこれを許可している。

 

↑こんな例が多数ある。そんな回りくどいことを律令国家がするだろうか。当然、しないであろう。だから言うまでもなく蝦夷征伐は実在したと言い切れる。  


俘囚料として、律令国家が国司(受領)に「俘囚専当」を兼任させ、俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせた。
俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除された。

律令国家の蝦夷征伐がやがて俘囚の移配につながってゆくまでは著者も述べている。


土器に関して、言語に関して、自説に都合のいいように解釈して牽強付会の印象を強くする。
ここでは例として、著者も挙げている蕨手刀を挙げる。
蕨手刀は実戦で使われていない。あくまで、横刀、贈答用のものであると言い切る。
面白い見解だ。こういうことを言う人はいなかった。

 

蕨手刀の発掘地として、北海道、オホーツク沿岸にもあるのがその証拠だとする。
そうした蕨手刀は交易の贈答品だという。
そうであれば、九州で出土した蕨手刀はどう解釈すればいいのか。


私はやはり、蕨手刀こそが日本刀の原型ではないかと思っている。
蝦夷は製鉄文化を持っていて、「舞草刀」という刀を作る技術があった。
湾曲して片刃の世界にも類例のない日本刀の原型ではという説もある。

『蕨手刀―日本刀の始源に関する一考察』 (1966年)石井昌国著 『古代刀と鉄の科学』石井昌國著、佐々木稔著 

 

蕨手刀から日本刀へ
平成9年東京国立博物館は、日本刀は蝦夷の蕨手刀が変化したもので平安中期頃に完成したとの見解を示した。
もちろん異論も存在するであろうが、合理的な推論と思われる。

これによれば、日本刀は直刀から発展したのではなく、
  蕨手刀→毛抜型蕨手刀(810~824頃)→毛抜型刀(870頃)→毛抜型太刀(900年代前半)→日本刀(987頃)、という変化を遂げたことになる。


柴田 弘武という歴史家がいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AD%A6

 

>『別所という地名について、菊池山哉の唱えた「俘囚の移配地」説が最も妥当だと考えている。
>山間僻地に多く、そこに東光寺、薬師堂、白山神社本地仏十一面観音)を祭り、
>また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなど、多くの共通要素を備えている。』

>『白山信仰は奥羽において一般的なものであり、奥州俘囚長の藤原基衡が建立した毛越寺・吉祥堂の本尊は、京都大原の別所にあった補陀落寺の本尊を模したという事実(『吾妻鏡』)からみて、別所と奥羽俘囚の関係は明らかである。
>蝦夷征伐は東北の鉱産資源、なかんずく産鉄労働力の確保にあったといえる。』

>蝦夷征伐による捕虜を俘囚と呼び、全国各地の産鉄地において労働者として従事させた、その地が「別所」だというのである。

 

20年かけて、こつこつと全国を巡り、写真に収め、解説を加えるという地道な作業。
それを、高校教師をやりながら、成し遂げたという偉業!!
いわゆる正統な日本史のセンセー達からは無視されているが、私はこれが真実と思う。
方向が間違っていれば結果は悲惨になるが、「坂上田村麻呂蝦夷「征伐」は、歴史書で流布されている現実とは違っている。鉄をめぐる五百年戦争大和朝廷の捕虜となった東北の産鉄民の移配地=別所説」はまったく正しい。

 

 鉄と俘囚の古代史 《増補版》 蝦夷「征伐」と別所 柴田弘武 (著) 彩流社 (1989) が、1989年に書かれ、
2007年に「全国「別所」地名事典(上) 大型本 – 2007/柴田 弘武 (著) 彩流社」となって結実する。

 

全国「別所」地名事典(上) 大型本 – 2007/11/1柴田 弘武 (著) 彩流社
古代史の真相に迫る、かつてない「地名」事典!「別所」―全国に遺る621ヵ所の地名を悉皆調査。「蝦夷征伐にともなう俘囚移配の主目的は、彼らを製鉄をはじめとした金属工業生産に従事せしめる為であった」という説を実証。古代王権に敗れ、歴史に埋もれた産鉄民の姿に光を当てる。621ヵ所の別所地名を中世の国別区分で編集。地図(約500点)、写真(約1250点)収載。巻末資料として「平成の大合併」により失われた地名と現在の地名対照表、全国別所地名一覧表を付す。


俘囚の移配地としての別所は、東北各県に今もある。
青森県に、宮城県に、山形県に、福島県に別所という地名が多数残っている。
ただ、1県だけ、岩手県にはないのだ。

岩手県といえば現・一関市の舞草刀(もくさ)、舞草鍛冶の伝説である。

 

平安時代、現在の釣山には坂上田村麻呂が東夷東征の際陣を張り、その後、前九年の役では、安倍貞任の弟である家任が居城したとも、源頼義・義家が陣をおいたともいわれている。 四方に街道が延びていることからも一関は交通の要所で軍事的にも重要視されていた。また、日本最古の刀鍛冶集団のひとつが、舞草(もくさ)の地を住まいとし、日本刀の源流の一つである舞草刀が作られた。なお、舞草鍛冶たちは、現在の儛草神社周辺に住んでいたという伝説がある。

 

集中的に徹底的に俘囚として駆り出されていったのではないか。
だから岩手県に、(俘囚の移配地としての)別所がないのではないか。
言うまでもなく、この舞草鍛冶たちが作ったのが舞草刀である。


2023-06-03
常世伝説の謎 : ある東国の寺をめぐって  常世田令子 著 三一書房1987 「坂上田村麻呂蝦夷「征伐」は、歴史書で流布されている現実とは違っている」
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/06/03/151742

2023-03-25
鉄と俘囚の古代史 《増補版》 蝦夷「征伐」と別所 柴田弘武 (著) 彩流社 (1989/9/1) 鉄をめぐる五百年戦争大和朝廷の捕虜となった東北の産鉄民の移配地=別所説をとる著者が文献と現地調査をもとに隠された古代史の謎に挑む。
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/03/25/164741


熊本県の北部に小国別所という地名が残っていて、九州ではここにしか出ていない珍しい蕨手刀が出土している。

肥後・熊本は、律令国家の出す俘囚料がもっとも多かった場所である。(延喜式 927年 173435束 計上。全国1位)

 

全国「別所」地名事典(下巻) 大型本 – 2007/11/1柴田 弘武 (著) 彩流社
第8章 九州の別所 842ページ

 

熊本県玉名郡玉東町、町史編集委員長、田辺哲夫。
「現在、この地で発見されているタタラ製鉄の炉は、奈良・平安以後のものであり、驚いたことに、その形態は筑前とも、出雲とも違い、蝦夷のものに酷似するという。蝦夷は製鉄に関しては、大和朝廷より先進地であった。」

 

熊本大学名誉教授・冶金学 堀一夫
「要するにね、俘囚が入ってきてね、教えたのは、いわゆるタタラの技術だと思う。」


関東S県のK市に蒲桜が有名な場所があって、菊池山哉の本にも写真付きで載っている。そこのそばに、熊本出身の著名な医学者が興した研究所があって、その著名な医学者の出身地が俘囚が連れて行かれた土地で、西日本九州では珍しい蕨手刀が出土してる。私はかれがそこに研究所をつくったのは偶然ではないとみてるのだが……。