鉄と俘囚の古代史 《増補版》 蝦夷「征伐」と別所 柴田弘武 (著) 彩流社 (1989/9/1) 坂上田村麻呂の蝦夷「征伐」は、歴史書で流布されている現実とは違っている。鉄をめぐる五百年戦争で大和朝廷の捕虜となった東北の産鉄民の移配地=別所説をとる著者が文献と現地調査をもとに隠された古代史の謎に挑む。

いわゆる被差別部落。西は別所起源。東は義経追補のための関所が起源。
大雑把に、こう言っていいかと思う。

菊池山哉の本を読んで知ったことだが、義経追補のために膨大な量の宣旨が頼朝から出されている。
執拗である。
関東の被差別部落はほとんどが旧街道沿いにある。だから関東の被差別部落義経追補のための関所が起源ではないかという菊池山哉の提唱。

延暦(782~805)年間の坂上田村麻呂のエゾ征伐のころが盛んで、編戸の民、おとなしく、百姓化した人たちもあり、
俘囚料・正税がつくので、延喜式主税式により、全国で1万人以上、下総で220人のエゾが、三力所の別所にとらわれていたのがわかる。

 

 >『別所という地名について、菊池山哉の唱えた「俘囚の移配地」説が最も妥当だと考えている。
 >山間僻地に多く、そこに東光寺、薬師堂、白山神社本地仏十一面観音)を祭り、
 >また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなど、多くの共通要素を備えている。』

 >『白山信仰は奥羽において一般的なものであり、奥州俘囚長の藤原基衡が建立した毛越寺・吉祥堂の本尊は、京都大原の別所にあった補陀落寺の本尊を模したという事実(『吾妻鏡』)からみて、別所と奥羽俘囚の関係は明らかである。
 >蝦夷征伐は東北の鉱産資源、なかんずく産鉄労働力の確保にあったといえる。』

 >蝦夷征伐による捕虜を俘囚と呼び、全国各地の産鉄地において労働者として従事させた、その地が「別所」だというのである。
 >その際、産鉄作業の技術を指導し、俘囚を束ねたのは、秦一族であった。

 

大陸の高度な文明を輸入した半島が半島人が、日本列島を支配したとの「誤解」が日本に充満している。
蝦夷は製鉄文化を持っていて、「舞草刀(蕨手刀)」という刀を作る技術があった。
湾曲して片刃の世界にも類例のない日本刀の原型では?という説もある。
『蕨手刀―日本刀の始源に関する一考察』 (1966年)石井昌国著

 

部落差別が天皇制によって生み出されたとする説を象徴的に示す事例としてあげられてきたものに、「洞部落強制移転」(1917年大正6)がある。
神武天皇陵を見下ろす位置に被差別部落があるのはけしからんということで、天皇制国家権力により蹴散らされるように強制移転させられたというものである。
 この事件をはじめて取りあげたのは、1968年、日本共産党員の歴史家である立命館大教授・鈴木良氏による「天皇制と部落差別」(『部落』)がはじめてである(もちろん、移転したこと自体は知られていたが)。
そして、この鈴木説が部落解放運動家に急速に普及していく。のちに部落解放同盟中央執行委員となる辻本正教氏も「その一文を胸が張り裂ける思いで読んだ。自分の生まれ育った部落が、こんなにも大きな歴史事実に遭遇していたのかと思うと、天皇制に対する怒りや部落差別に対する怒りが、腹の底から沸き立つのを禁じ得なかった」と回想している(辻本『洞村の強制移転』)。
そして、辻本氏はこの事件を、同地を訪れる人に「まるでテープレコーダーでもあるかのように」語り続けていく。

しかし、辻本氏は、移転後の洞部落の道路が縦横に整然と走っていることなどに気がついて、鈴木説に疑問をいだくようになり、研究の結果、強制移転ではなく、部落大衆の「自主的献納」であったことを明らかにした(辻本、同上)。
また、その後、高木博志氏は「近代神苑論」をあらわして、被差別部落だけでなく、一般の村落も移転していることを明らかにした。 

 

辻本氏はウソに気づいただけ素晴らしい。
この件だけでなく、階級闘争史観を盛り込もうとする共産党系の歴史学者は迷惑この上ない。

 

菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のように伝えている。

「長吏と特殊部落」多摩史談会 昭和22年 376ページ 四、高市郡より


「丸山宮址と呼んでいるが、宮があったとは聞いていない。径25間の平地で、円形をなし、その中心が、径3間ぐらい、こんもりと高く、昔は松の木が茂っており、その上を通ると音がして、他のところとは変わっていた。その境内に、7つの白橿(しろかしわ)の大木があった。最後のものは周囲すでに皮ばかりで、そのなかが、6尺からの空洞であった。皮ばかりでも『しめ縄』がかけられていた。白橿村というのは、御陵に白檮の大木が7本もあったからで、神代からのものと伝えられていた。


洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は街路整然としている。もとは畝傍山の東北の尾の上であり、『古事記』『日本書紀』は神武天皇陵と伝えているところと一致する。神社を生玉(いくたま)神社という。祭神は神武天皇とのことだが確かではない。
この部落は、神武天皇陵の守戸であると伝承している。神武天皇陵は、畝傍山の東北の尾の上の平らなところで、丸山宮址のところとも、生玉神社のところとも伝えられている。旧家は、御陵と伝えられているところの下で、『ひぢり垣内(かいと)』ととなえ井上、辻本、楠原、吉岡などが本家。ともに日向からおともしてきた直系の家来で、そのため墓守になったと伝えている。」

 

洞村の人々が九州から来て、神武天皇の墓守をしたという伝承は、洞村のすぐそばにある丸山が真の神武天皇陵であることを支持しているように見える。


関東S県のK市に蒲桜が有名な場所があって、菊池山哉の本にも写真付きで載っている。そこのそばに、熊本出身の著名な医学者が興した研究所があって、その著名な医学者の出身地が俘囚が連れて行かれた土地で、西日本九州では珍しい蕨手刀が出土してる。私はかれがそこに研究所をつくったのは偶然ではないとみてるのだが……。

 

併せて読みたい  
洞村の強制移転―天皇制と部落差別 辻本 正教 1990/11/1 解放出版社

おとぎの国の部落史話  2001 辻本 正教 (著) 三一書房
部落問題の気鋭の作者が神々、諸仏、十二支、桑など動植物の織り成す世界を創造力豊かに描き、古来日本の民俗・民話の題材となった絹と養蚕のテーマを、漢字の字義・字解などによって解明するユニークな歴史分析本。

『蕨手刀―日本刀の始源に関する一考察』 (1966年)石井昌国著
『古代刀と鉄の科学』石井昌國著、佐々木稔著 


全国「別所」地名事典(上) 大型本 – 2007/11/1柴田 弘武 (著) 彩流社
古代史の真相に迫る、かつてない「地名」事典!「別所」―全国に遺る621ヵ所の地名を悉皆調査。「蝦夷征伐にともなう俘囚移配の主目的は、彼らを製鉄をはじめとした金属工業生産に従事せしめる為であった」という説を実証。古代王権に敗れ、歴史に埋もれた産鉄民の姿に光を当てる。621ヵ所の別所地名を中世の国別区分で編集。地図(約500点)、写真(約1250点)収載。巻末資料として「平成の大合併」により失われた地名と現在の地名対照表、全国別所地名一覧表を付す。