法隆寺は移築された―太宰府から斑鳩へ 1991米田 良三 (著) 新泉社 世界最古の木造建築、法隆寺の五重塔や金堂は九州大宰府から移築された。

法隆寺の資材帳や昭和の解体修理工事報告書などを詳細に検討、三十三間堂観世音寺の謎も解明。倭国の文化と聖徳太子の原像を描き出す。

 

建築家である著者の結論は、法隆寺は九州大宰府から移築されたというもの。
名高い法隆寺の再建・非再建論争のことは知っている人も多いと思うが、それを圧倒する結論、それが法隆寺移築説である。

 

法隆寺金堂、五重塔、夢殿、その他は、太宰府観世音寺を解体移築した建物であり、その時期は710年である。
また太宰府観世音寺そのものは中国正史「隋書」に記載されるイ妥国の王者、多利思北孤により607年太宰府に創建され618年落成した。
現存する主要な仏像も又観世音寺からの移設である。

 

ただ、著者の説は無視されているが、1962年に宮大工の棟梁の家系に生まれた11世伊藤平左衛門もまた、建築に使われる尺度の歴史的違いに着目することで、法隆寺は後世の再建で、別の場所から移築されたと結論付けた。
古建築秘話 / 伊藤平左エ門∥著 / 鳳山社 , 1962
両者の移築説は無視されているが、法隆寺がどこかよそから移築されたのは間違いないと思う。

 

最近の研究で、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年に極めて近いと発表されている。
伐採年が『日本書紀』における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることから、九州から解体されて運ばれた用材が40~80年余りも現・法隆寺の近辺に置かれていたという推察が成り立つ。
現在のJR法隆寺駅の南方の川岸周辺に寺院資材が大量に積み上げられて置かれた。
そこの地名が「置留(おきどめ)」→「興留」として残ったのではないか著者は推察する。

他にも法隆寺金堂の「昭和大修理」で解体された際、「六月、肺出」という落書きが残っているのが発見された。
肺とはハレー彗星のことで、617年6月に地球に大接近したときに符号する。金堂建築中に目撃した大工が、稀に見る自然現象を書き留めたものと推定される。
心柱の伐採年が594年で、617年6月に九州観世音寺(現・法隆寺)を組み立てていたとすればつじつまが合う。


著者略歴・米田良三 建築家、古代史研究家。1943年三重県松阪市に生まれる。1968年東京工業大学建築学科卒業。
建築から日本古代史を見直す研究をつづける一方、古代建築の基礎構造をヒントに耐震技術の開発を行っている。
著者は残念ながら近年がんを患って亡くなった。
ただ著者の友人が思いを継いで遺稿集をまとめている。4冊で8000円くらい。分冊売買可能。興味のある方は問い合わせてください。
全冊購入して熟読したが、さすがに柿本人麻呂源氏物語も舞台が九州であったという部分にはまだついていけていない。
https://www.abandjc-press.com/content37/index.html
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