蘇我馬子は天皇だった、日本書紀の秘密、ワカタケル大王の秘密 石渡信一郎無残!

本を整理していたら、石渡 信一郎の懐かしい本が次々と出てきた。しばし読みふける。
いろいろ感じることがあった。
読書のだいご味は再読にある。とくに日本古代史についてそれは言える。
特に取り上げるのは以下の3冊。

 

日本書紀の秘密 1992/石渡 信一郎 (著) 三一書房
記紀」に登場する神々の正体は?スサノオ、アマテラスなど神々の対立・交替は何を意味するのか。天武天皇の年齢はなぜ隠されたのか?いよいよ古代国家成立の全貌に迫る。

 

蘇我馬子天皇だった  1991/石渡 信一郎 (著) 三一書房
聖徳太子は実在しなかった。太子は蘇我馬子の分身であり、架空の人物であった。大化の改新(645年のクーデタ)で王権を奪取した継体王家は『日本書紀』によって、蘇我氏天皇家であったことを隠蔽した。本書は、蘇我氏の驚くべき出自を明らかにする。

 

ワカタケル大王の秘密 1997/石渡 信一郎 (著) 三一書房
ワカタケル大王を雄略天皇とする通説を根底から覆し、稲荷山鉄剣の秘密と、著者が主張する「ワカタケル大王=欽明天皇」説の全貌を明らかにする。

 

2023-06-21
隠された日本古代史;存在の故郷を求めて 2022/林 順治 (著)彩流社 「これぞ、昭和脳の悲劇?」
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/06/21/150410

 

↑石渡信一郎に関しては、ここで批判的に取り上げた。
 とくに「渡来人大量渡来説」が問題である。
 私としては、全否定である。一読して欲しい。
今回まとめて読んで初回以上に、氏の論説にアラが目立った(笑)。まずは否定の前にいいところを論ずる。

 

ワカタケル大王の秘密 1997/石渡 信一郎 (著) 
この本の初っ端から60ぺージまでが、例の箸墓古墳に関する奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター、長げーー(通称・奈文研)徹底粉砕である。

これはいい。すべてに賛同できる。読み応えがあった。面倒なので小見出しだけ挙げておく。

 

誤認を誘導する新聞発表
大和説に肩入れする国立奈良文化財研究所
慎重を要する年輪年代の測定法
光谷拓実の誤り
大和説の崩壊
非科学的な考古学会の通説
大和派の妄想

 

<独自>奈文研の年輪年代法データ「不開示は不当」 市民団体が提訴へ
2022/1/23 21:00 産経WEST
国内で初めて年輪年代法を確立した奈良文化財研究所=奈良市
国内で初めて年輪年代法を確立した奈良文化財研究所=奈良市

遺跡や建築物に用いられた木材の年輪幅から伐採年を特定する「年輪年代法」をめぐり、日本でこの測定法を確立した奈良文化財研究所(奈文研、奈良市)が、年輪幅の基礎データの開示を求めた市民団体の情報公開請求に対し、調査研究への支障を理由に不開示としていたことが23日、関係者への取材で分かった。

 

↑すでに訴訟沙汰になってる! 邪馬台国畿内説(大和説)が私見ではすべて悪い。
これを根拠に纏向古墳は卑弥呼の墓ニダーと言ってるんだからこの不開示は不当である。しかも奈文研は税金で運営されている。
どうやら、サンプルの取り方に問題があるようだ。
しかもそのことを自覚しているからこその、年輪年代法データ不開示なのではないか。


測定法の確立からはすでに30年以上が経過しており、団体側は「研究に支障が生じるとは考えられない」として、近く不開示決定の取り消しを求め、提訴する方針。

年輪年代法は、奈文研の前身である奈良国立文化財研究所の光谷(みつたに)拓実氏が昭和55年に研究に着手。ヒノキについて、紀元前から約2千年分の年ごとの年輪幅が分かる「暦年標準パターン」を平成2年までに確立。その後、範囲を広げ、現在ではヒノキとスギの約3千年分の年代を測定できるようになっている。

団体が開示を求めたのは採取した木材の年輪を撮影した画像や年輪幅の計測結果など「暦年標準パターン」の作成に用いられた基礎データ。昨年7月に奈文研側に公開を求めたところ「調査研究の公正かつ能率的な遂行を不当に阻害する恐れがある」として不開示の決定を受けた。

団体側は「暦年標準パターン自体は平成2年に公表され、30年余り経過している。基礎データの開示で調査研究を阻害する恐れが生じるとはいえない」と不開示に反発。暦年標準パターンが年代測定の「物差し」になっているにもかかわらず、その妥当性を示すデータを公開しないのは不当だと主張しており、奈文研を運営する独立行政法人国立文化財機構(東京)を相手取り、近く東京地裁に訴訟を起こす。


聖徳太子は実在しなかった。太子は蘇我馬子の分身であり、架空の人物であった。

 

↑これは賛成する。おそらくこの人がこの論点、嚆矢ではないかな。大山誠一より早い。ただ、いいのは前半部だけで、九州王朝説に立つ自分はアメノタリシホコ(聖徳太子)というのは九州王朝の王様でじっさいに中国の使者と面談している。


ワカタケル大王を雄略天皇とする通説を根底から覆し、稲荷山鉄剣の秘密と、著者が主張する「ワカタケル大王=欽明天皇」説の全貌を明らかにする。

 

↑すべて空しい…
 
この稲荷山鉄剣の解読にまつわる意見でいちばん鋭いのが古田武彦説である。これは、解読以来50年以上経ったが依然として変わらない。考古学者たちに無視されているが、いちばん鋭いのが古田武彦説。2番目に鋭いのは、東洋史学の泰斗、日本でいちばん漢籍を読んだ人といわれる京都大学教授・宮崎市定の「こういった短い金石文に、「記」という字が2度出てくるのはおかしい。これは、ひとつは、記氏のことではないか」である。

埼玉県稲荷山鉄剣の、ワカタケル大王を雄略天皇とする通説も、石渡信一郎の「ワカタケル大王=欽明天皇」説も全部まとめて却下である。

 

古田武彦は言う。

ここに出てくる、(ワカタケル大王がいるとされる)磯城宮とは、鉄剣出土地からわずか北に20キロ行ったところにある、群馬県藤岡市の大前神社(かつてこの神社は磯城宮とされる)のことである。

「もう一つ、大事なこと、それはこの藤岡町(赤麻)の内出古墳から、「金環・金銅製馬具」類の出土があり、これは埼玉古墳群の出土品と全く同類、という点です。(たとえば、稲荷山古墳の隣の将軍山古墳も) つまり、この磯城宮と稲荷山とは同質の政治・文明圏なのです。」
多元的古代の成立 下巻124ページ 駸々堂出版 1983

 

最後の致命的矛盾

稲荷山古墳には「二人の死者」が葬られています。
粘土郭(主部)と礫床(副部)です。
稲荷山古墳自体は、さいしょ粘土郭の主のために作られ、のち礫部が追葬された。
すると、絶対的な多数説の場合、この「鉄剣」は、遠く大和なる天皇のことを強調して、近くは自己の7代の先祖の名前を麗々しく列挙しながら、肝心の、自己の(死後をともにするほど)慕う「粘土郭の主人」については、まったくカットして触れていないことになる。背理である。

 

↑どうです、この説得力の濃さ!! これを日本の考古学会は無視しているんだから、世も末である。


いわゆる「倭の五王」について

ここでもいちばん鋭いのは、やはり古田武彦である。

宋書』に記されている「倭の五王」は大和政権の天皇ではない。
従来説(石渡信一郎も同類だ)では、5人の王名(讃・珍・済・興・武)はいずれも天皇の本名を省略したものである、ということになっている。
例えば、仁徳天皇の本名は「オオササギノミコト」であるが、その「ササ」のあたりの発音を「讃」の字で表記したのであろう

などというのだ。これが日本史の学者たちの頭のレベルなのである。語呂合わせに終始しているように見えてしまう(笑)。
しかし実際は、中国の歴史書はいずれも、周辺異民族の首長の名を省略して表記することはないのである。何文字になろうと万葉仮名のように発音を写し取っているのだ。
倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年とが全く合わない。また、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の漢風の名を名乗ったという記録は存在しない、南朝東晋-梁)側が勝手に東夷の王に漢風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないと考えられる。


畿内ヤマト政権は、「引きこもり」政権である。
金剛山地の右側に引きこもって、外敵をシャットアウト。ひたすら、大古墳を作りまくっていた。
だから、畿内ヤマト政権には水軍がない。これまでに遺跡もみつかっていない。

 

畿内ヤマト政権がまとめた万葉集白村江の戦いの歌がひとつもない!

万葉集は「7世紀~8世紀」にまたがる歌集であり、その時期の最大の事件は白村江の戦いである。
だが、万葉集全20巻中、「白村江の戦い」を歌った兵士やその恋人、家族の歌が一切収録されていない。

 

歴史は勝者のものである。
とくに「日本書紀」における朝鮮関係、とくに対百済の記事は九州王朝のものをそのまま(あるいは可変して)流用した可能性が強いと思っている。