広開土王碑との対話 (白帝社アジア史選書) 2007/武田 幸男 (著) 白帝社

高句麗の「広開土王碑」は、よく知られているように、広開土王の功績をたたえた古碑である。中国東北辺で蔓苔を絡め、風化した姿で現れたこの「広開土王碑」ほど、長く国際的な論題になり、ホットな論争を呼び続ける碑石は稀であろう。本書は、もの言わぬ「広開土王碑」と真摯に対話した酒匂景信・水谷悌二郎や、王志修・栄禧・初天富ら、内外の多彩な人物像を通じて、その実態に迫り、王碑の語る真意を探る。また、碑文の解読に欠かせない、全字格の釈文、読み下し文、訳文を付す。


西暦414年に高句麗の長寿王(広開土王の息子)によって建てられ、1800字余りの金石文が刻まれているが、中でも重要なのは「倭」という文字が9つも出てくることである。
しかも、内容は、倭人を制圧した、倭人に勝ったという記述だらけである。


399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

高句麗の広開土王碑(西暦414年10月28日)の倭人に関すること要旨。


高さ6、3メートルというから、かなり大きい。
一説では300年前に地上に出てきて、発見されたときは半分、川に埋没してたという。
やがて表面に苔が生え、文字を読み取るために何度も焼かれたという。
カラー写真でも見たが、満身創痍、とても素人がぱっと行って読み取れるものではなくなってる。
ただ、先人たちの労苦のおかげで、明治初期以来、崩れてしまって判別不能になった文字はあるが、95パーセントは解読可能で貴重な証言となっている。


このテーマ、興味津々なので、なんだかんだで20冊以上読んだ。
その中で、これだけは言わせて欲しいというのが、反日サヨクと、ちょうせんじんのコラボは最悪だということだ。
それ、本質じゃないから、という内容の本ばかりになっている。
憂うべき事態であろう。
どういうことかというと ↓


大日本帝国陸軍による碑文改竄説とその破綻
    
辛卯年条に関しては、酒匂本を研究対象にした日本在住の韓国・朝鮮人考古学、歴史学者の李進熙が、1970年代に大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えた。李進熙の説は、5世紀の朝鮮半島に倭(日本)が権益を有していたように捏造するために、酒匂景信が拓本を採取する際に碑面に石灰を塗布して倭・任那関係の文章の改竄をおこなったとするものである。その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであるとする。

 

ほかにもこの説に対しては井上光貞古田武彦田中卓上田正昭らからも反論が示された。1974年(昭和49年)に上田が北京で入手した石灰塗布以前の拓本では、改竄の跡はなかった。1985年には古田らによる現地調査が行われ「碑文に意図的な改ざんは認められない」と結論付けた。

 

さらに、2005年(平成17年)6月23日に酒匂景信本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂景信本と同一であると確認された。さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂景信本とが完全に一致していることが発表され、これにより李進熙の改竄・捏造説は完全に否定され、その成果は『好太王碑拓本の研究』として出版された。

 

↑私はこの件、罪日ちょうせんじんと反日サヨクの嫌がらせではないかと思ってる。

何より、結果がそうなってる。
この貴重な歴史の証人を前にして、日本の歴史学者の本、8割ぐらいは李進熙の改竄・捏造説に割かれるようになってしまった。
本質は何なの、と問いたい。

 

あと、この本の著者ではないが、酒匂景信砲兵中尉のことを、「スパイ」と書いてある本があり、目が点になった。
シンガポール攻略戦も岩畔機関のインド人への調略がうまくいったから成功したという側面もあり、独立国なら戦争前に相手国に対して調略活動行うのは当然ではないか。それを、「スパイ」と切り捨てるなんて!!
宮崎県には、遺族もおられる。肖像写真まで引っ張り出して、ご遺族が目にすればさぞや悲しまれたであろう。
密偵と言いなさい、密偵と(笑)。
ここまで、日本の学会は腐っていたのかと引いてしまった。


この倭人も、古田武彦いうところの九州王朝人だと思う。
決して畿内ヤマト王権倭人ではない。

この、朝鮮資料に出てくる倭、倭人は九州王朝人である。
2世紀から3世紀、4世紀にかけて海を渡って、朝鮮半島に足場を築いてたものと思われる。
それで朝鮮民族とのあいだに齟齬あつれきが発生した。

 

畿内ヤマト政権に、水軍がない。
これまで遺跡も見つかっていない。
畿内ヤマト政権は「ひきこもり」政権である。

あんなに大層な古墳をたくさん作ってるんだから、朝鮮半島に進出して当然だと考えてる人・学者多すぎる!
逆じゃない?
あんなにたくさん古墳つくってるから、すべての労力を古墳づくりに削がれて、朝鮮半島に進出なんかできなかったのではないか。
任那日本府というのも畿内ヤマト政権がつくりだした作文である。


併せて読みたい

 

2023-08-23
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https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/08/23/162747

 

広開土王碑と参謀本部 (1976年) 佐伯 有清 (著) 吉川弘文館

高句麗史と東アジア―「広開土王碑」研究序説 1989/武田 幸男 (著) 岩波書店