遥かなり馬冑: 楽浪郡から紀伊・大和への道 1987/日根 輝己 (著)アイペック  この著者の、この著書が凄い!

アマゾンレビューをみてもまったく振り返られていないようで非常に悲しい…
全著作、すべてにレヴューが付いていない。

だが、私の読むところ、この和歌山新聞、元・記者の書く日本古代史本はどれもこれも鋭い。
7冊くらいあるが、ぜんぶ凄い。

過去に1度取り上げたことがあるが、一番読み応えがあったものを再度、取り上げたい。

 

 

tennkataihei.hatenablog.com

この和歌山新聞の記者による日本古代史の一連の本は非常に面白い。
まず、砕けたわかりやすい文章がいい。こういう方がリアルである。
4,5冊読んだが、すべて核心に迫るもの。知られていないが大したものである。

 

タイトルにある馬冑というのは、和歌山県の大谷古墳から発掘された馬の頭部にかぶせる馬の甲冑のようなものである。


紀伊大谷古墳出土品
きいおおたにこふんしゅつどひん

bunka.nii.ac.jp

大谷古墳は紀の川北岸にあり、築造時期は5世紀後半から6世紀初めごろとされる。 馬冑は昭和32年から翌年2月に京都大が行った発掘調査で発見。 鉄製で、長さ52・6センチ、最大幅は24・5センチ。 馬の顏を覆う面覆(めんおおい)、頭の上に立てる廂(ひさし)、頬当(ほおあて)の3つの部分からなる。2023/08/22


福岡県うきは市吉井町若宮で江戸時代、発掘された馬冑も同一種族が埋めたものだと推論する。
そして、その起源は朝鮮半島伽耶地域にあるとする。


馬冑の出土例

朝鮮半島伽耶地域 → 福岡県うきは市吉井町若宮で江戸時代、発掘された馬冑 → そして、和歌山県の大谷古墳

 

↑見事につながる。


私がこの人の本を高く評価するのは、とりわけ、「半島倭」と名付けて朝鮮半島南部は倭人が海を渡り根拠地を築いていたことを再三述べていること。
不思議なことに考古学者の奥野正男氏は高く評価するようだが、九州王朝説の古田武彦には言及がない。
例の広開土王の石碑をみればそれは一目瞭然でないか。

 

ただ、その際、カギとなるのは、畿内ヤマト政権の存在である。

畿内ヤマト政権に、水軍がない。
これまで遺跡も見つかっていない。

畿内ヤマト政権は「ひきこもり」政権である。
金剛山地の右側に引きこもって、外敵をシャットアウト。ひたすら、大古墳を作りまくっていた。

あんなに大層な古墳をたくさん作ってるんだから、朝鮮半島に進出して当然だと考えてる人・学者多すぎる!
逆じゃない?
あんなにたくさん古墳つくってるから、すべての労力を古墳づくりに削がれて、朝鮮半島に進出なんかできなかったのではないか。
任那日本府というのも畿内ヤマト政権がつくりだした作文である。


馬冑というものの3つの発掘事例を挙げ、日本に確かに渡来民はいたという確証を出してくる。

それでは、騎馬民族渡来説に万歳かといえばそうではない。
ここからが著者の凄いところ。騎馬民族渡来説には批判的である。

 

著者は、渡来してきたのは、朝鮮半島の支配者である漢人であるという。
私もいろいろ読んで考えるが、その説に大賛成である。
さらに言えば、海人主体の漢人混ざりとでもいおうか。

 

日本における、馬の育成方法が諸外国とはまったく違うという話もある。

端的に言えば、日本人は「去勢」を知らなかった?

だから、明治時代、例えば、1900年(明治33年)に北京近郊で発生した義和団事件において、諸外国の馬が参集した場で、日本の馬だけが興奮して暴れまわって手が付けられなったというエピソードがある。

こんなことが、「騎馬民族の末裔」にあり得るだろうか?


さらに言えば、騎馬民族がこんな大層な馬冑を作り馬にかぶせるだろうかと疑念を述べているところが素晴らしい。

 

さらに、いわゆる伽耶地域は「3,伽耶は倭だった。 56ページ」という。

例の魏志倭人伝陳寿が残した「魏志東夷伝」。
韓半島の実情を述べてる部分。

辰韓条、弁韓条、韓条の一節。いづれにも、

「…倭と接して…」とある。

 

松本清張も言ってるが、これは韓半島南部に倭人が住む地域があったことは疑いようもない。

 

さらに、広開土王碑をめぐるちょうせんじんの批判に対して、その熱いナショナリズムに対して批判する。
碑文を改ざんまでして! といった無茶苦茶な批判に対してこの反論はきわめてまっとうだ。
言い返せない、反日サヨク歴史学者たちは引退した方がいい。


最後に、これをどうしても書きたかったという、素晴らしいことを著者が述べている。


第4部 天皇への道  2,志紀県主は先住部族の首長 258ページ

大和朝廷の始祖とされる神武天皇が即位した橿原の地が磯城(シキ)で、古市古墳群のあたりも志貴(シキ)と呼ばれている点である。
「しき」という言葉には、半島倭から北部九州を経由してきた部族の聖地にからまる何らかのいわれがあるのではないだろうか。
彼らが王都としてきたところを必ず「しき」と呼ばれていることに注目したい。


じつは、福岡県 御所が谷の神籠石もかつて、ほとぎやまと呼ばれていた。

ほとぎやまとは、シキ、あの正岡子規のシキである。

↓ これが偶然とはとても思えないのだ。


2024-02-25

 

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 女神信仰と邪馬台国 田中了一著・2000年 自費出版 邪馬台国だけではなく、「倭国」の実態も、もしかしたら、この辺りにあったのではないか?

以前、一度取り上げたことがあるが、15年くらい前に神保町の古本屋で4冊まとめて手に入れた本である。
繰り返し読むたびに、これは凄い核心を突いた珍本ではないかと思えてきた。


九州北部に、大宰府を取り囲むように造られた謎多き神籠石の遺跡のことは知っているだろう。
山口県や四国にまで発見されたが、なぜか、古事記日本書紀には一切記述がないというアレである。
ズバリ、これが卑弥呼の居城ではないかというのが田中了一氏、歴史学者・重松明久氏の見解である。 

 

とくに福岡県にある御所が谷の遺跡に注目したい。
今でも立派な水門が残っているが、たかが排水のためにこんな立派な水門をつくらないだろう。
私はこの水門で、まじない札と禊の神事が行われていたのではないかと思う。

御所が谷、神籠石という名称も何やら意味深ではないか。
それにこの近辺は、古来より、神代の昔から美夜古(みやこ)と呼ばれていた。


「……しかもこの地域は中臣郷であり、祭神官を司っていた中臣氏にふさわしい祓郷村や、祓川があり、中臣氏に神事のありかたは、祓うということをもちいていた。また伊勢斎宮の地に祓川があり、このことから欽明は斎宮を立て、天照大神を祀った御神体は中臣郷の祓川そばにある豊日別宮こそが、伊勢の源神であり、神鏡に魂を入れ御神体として運ばれ、斎宮の祓川は源神の聖地に流れる祓川にちなんだものとみられる。」
 

この秡川の上流の水源地がまさに御所が谷の神籠石である。

東京から現地へ5回ほど行ったが、本州、山口県側に石垣が積まれていることを考古学者のだれも指摘しない。
つまり、本州、山口県側からの敵に対して造られたということだ。

しかも、石垣を積まれた御所が谷の神籠石から海まで九州、みやこ平野という平らな土地が続いており、「逃げ城」としては非常に優秀である。


しかも付け加えれば、ここは「隋書倭国伝」の「秦王国」である。
隋書俀国伝(貞観二年(628)唐の時代の書物) 

 

「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を使者として倭国へ派遣した。百済へ渡り、竹島に至る。

南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至り、またチクシ国へ至る。
また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。
チクシ国以東はみな倭に付属している。」

 

↑これが、ここが最重要。当時のシナ人からみて、まぎれもなくそこに住んでいた人たちはシナ人だったと言ってる。

同行者の倭人から聞き及んだのであろう。じっさいにそこに降り立ったのではない。船から眺めただけだ。

裴世清の倭の記録は、九州内で完結する。現在の福岡県行橋・京都(みやこ)群みやこ町の辺りだ。

古代戸籍に載っているその地域の件の姓は、同じ姓の者が六国史の「続日本後紀」に承和二年(八三五)に「秦公」の姓が与えられたという記録が残っている


併せて読みたい

 

紀氏は大王だった: 消された邪馬台国東遷と紀氏東征 1995/日根輝己 (著) 燃焼社
第1部は邪馬台国の東遷と紀伊・熊野が本州における「イズモの原郷」である事を中心に立証。第2部は邪馬台国の後を追うように紀伊にやってきて大和で王権をたてた紀氏の「奪われた歴史」の回復と紀氏こそ大王だった事を立証。
 

謎の画像鏡と紀氏: 銘文は史読で書かれていた 1992/日根輝己 (著) 燃焼社
出所不明で造作も幼稚な隅田八幡画像鏡が何故国宝に指定されたのか? 「最古の日本文」とされた銘文が吏読(漢字の朝鮮式表記)だったとしたら…。謎の豪族・紀氏とのからみの中で、古代史の疑問を考える。
 

紀氏の研究―紀伊国造と古代国家の展開 (日本古代氏族研究叢書) 2013/寺西 貞弘 (著)  雄山閣
 

謎の巨大氏族・紀氏 1994/内倉 武久 (著) 三一書房
四~六世紀、日本列島の主導権を握っていた紀氏は西日本全域に勢力を張り、朝鮮半島に攻めこんで王を名乗ろうとした。大和政権はあまたの歴史書を没収し、古代史を書き換え、紀氏の活動も消された。

 

邪馬台国の研究」(重松明久)昭和44年刊 白陵社

「神代帝都考」狭間畏三 (著) 昭39。明治32年版の再刊。

豊前王朝―大和朝廷の前身 2004/2/1大芝 英雄 (著) 同時代社


2023-12-26
孔子伝」(白川静)における、第4章「孔子の批判者たち(墨子)」、及び「古代国家と道教」(重松 明久)1985における、「大卒」発見について