『清明上河図』を知っていますか? 舞台が古代の日本、それも博多だとしたら… 『日本国王室全滅亡 東アジアの悲劇』(2018.10.10発行)米田良三

清明上河図(せいめいじょうがず)は、中国北宋(960年 - 1127年)の都・開封都城内外の殷賑(にぎわい栄えた)の様を描いた画巻である。
オリジナルは北京・故宮博物院に所蔵されているが、類作が数多く伝わっている。

 

北宋末期の張択端の作品とされる。清明の時節の、都の東京開封府の内外の人士が行楽して繁栄する様子を描いている。季節は、春たけなわであり、その絵画的な精細描写の価値とともに、当時の市街図や風俗図として、極めて資料的価値も高いものである
作者といわれる張択端は他に作品は伝わっていなく、無名だという。


謎の名画・清明上河図 北京故宮の至宝、その真実 (ソフトカバー)2011/野嶋剛 (著)勉誠出版

描かれた場所、時期、作者、来歴、真贋の程、画の長さ、等々、謎の数々を著者は丁寧に検証している。
本書は、まず来歴の謎解きから始まる。
「五次入宮、四次出宮」という言葉に表されるように、北宋が滅び金人に渡ったと思われる「清明上河図」はその後宮廷と民間を行き来したとあるが、その流転の歴史を都市伝説のような挿話も交えて解説されている。
終の棲家として北京故宮の収蔵品となったのは、誕生したばかりの中華人民共和国国威発揚と関係があるという件に中国らしい強引さが垣間見れて面白い。
歴代の王朝において権力者たちはそのステイタスを証明するために「清明上河図」を手にいれようとしたが、現代中国においても同様のことが繰り返されているということだろう。


清明上河図』は、舞台が古代の日本、それも博多である。
もちろん、日本人絵師によって書かれた。
時期は、白村江の戦(663年10月)の直後、進駐してきた郭務悰率いる唐軍の部隊2000人の乱暴狼藉によって唐に持ち去られたものだという。
前々回紹介した、法隆寺移築説を唱えた建築家の米田 良三氏がこの『日本国王室全滅亡 東アジアの悲劇』のなかで、言ってる。

 

2023-02-27
法隆寺は移築された―太宰府から斑鳩へ 1991米田 良三 (著) 新泉社 世界最古の木造建築、法隆寺五重塔や金堂は九州大宰府から移築された。
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/02/27/230255?_gl=1*1jxf9lq*_gcl_au*ODYwMTM3NzQwLjE2ODQ4Mzc0MjQ.&_ga=2.38874915.1225186090.1677058418-1518550015.1677058418

https://www.abandjc-press.com/content37/index.html
米田建築史学シリーズ 全4冊最新データ

日本国王室全滅亡 東アジアの悲劇』 縦書き 20行×42字 200ページ
 A5版ハードカバー改定カラー版(2018.10.10発行) 3850円
 米田良三 著 渡辺しょうぞう 編集
 AB&JC PRESS 発行 旧版に「清明上河図論」、「石山寺論」を追加

 

この人、米田 良三氏は他にも、東大寺、百閒堂、長谷寺、宇治の平等院鳳凰堂源氏物語柿本人麻呂も九州から移築され、あるいは舞台が九州だと言ってる。
長谷寺東大寺は移築元も特定して現地へ行って持論を展開している。
珍説、奇説に類するものだろう。
確固とした九州王朝論者の私も頭を悩ませている(笑)。


665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。

667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた。


日本書紀』によれば、白村江の戦いの後の671年11月に、「唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋(比珍島)に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。

 

↑この一連の唐側の行動、使者は敗戦処理のため、九州王朝論者の米田 良三氏は九州博多にやってきて九州が舞台だという。1300年前のマッカーサーと言えるかもしれない。


「……清朝画院本から推定すると、元本Aの描かれた内容は4月5,6日の清明節の日本(倭)国の情景と言って誤りないだろう。では河は何川かといえば、賀茂川(現在は、御笠川)である。京(大宰府都城)から流れ出て、城壁(現在の水城)の逢坂の関をくぐり、約10キロメートル下って、承天寺手前で直角に曲がる人工河川である堀江が、現在の博多区役所の先で、内海である近江の海(現在の福岡市街に流れ出ていた。流布本の、反り橋は山田橋(大野城市山田)で、清朝画院本のアーチ橋は、堀江にかかる長柄橋です。難波津の中心は博多で、長柄橋を渡った先に描かれた大きな道は、逢坂の関まで613年に整備されました。このように見てきますと、元本Aは、唐が滅ぼした日本(倭)国の王室の宝物、絵巻であった可能性が大きく、まだ台北故宮博物院が公表していない人類の宝だと思われます……」


高村雅彦・法政大学デザイン工学部教授(専門・中国中世建築)の解説がためになった。『清明上河図』をよむ 2004/伊原 弘 (監修, 読み手)勉誠出版
文字通り、目を皿のようにして読みこんだが、これだと言わせるもの、博多が舞台だと決め手になるものは発見できなかった。

 

城門からラクダに乗った一行が通過する描写がある。
この時代に日本に九州にラクダはいないのではないか?
あと、おびただしい中国語の看板がある。
ただこの作品、明の時代、清朝の時代におびただしく類作が書かれ、あえて邪推すれば、シナ文明寄りの加筆が加えられた可能性がある。

 

清明上河図」は純粋に絵巻物として逸品だから、知らなかったら見たことがなければ近くの図書館に行ってみることを強く勧めたい。
ジオラマ好きの私にとってはこれを眺めるのが至福の時間になっている。



併せて読みたい

清明上河図』をよむ 2004/伊原 弘 (監修, 読み手)勉誠出版

清明上河図」と徽宗の時代 そして輝きの残照 2011/伊原 弘 (著, 編集), 清木場 東 (著), クリスチアン・デ・ペー (著), 久保田和男 (著), 勉誠出版

謎の名画・清明上河図 北京故宮の至宝、その真実 (ソフトカバー)2011/野嶋剛 (著)勉誠出版