ヒトラーの遺言: 1945年2月4日―4月2日 2011 原書房 Martin Bormann (原名), 篠原 正瑛 (翻訳), マルティン ボルマン 第三帝国壊滅に直面したヒトラーが、ヨーロッパ、そして世界の現状と将来への見通しを腹蔵なく吐露。第一の側近が正確に書きとどめた世紀の独裁者の思想のエッセンス。訳者による時代背景を中心とした詳細解説つき。

「我々にとって日本は如何なる時でも友人であり、そして、盟邦でいてくれるであろう。この戦争の中で我々は日本を高く評価するとともに、いよいよ益々尊敬することを学んだ。この共同の戦いを通して、日本と我々との関係は更に密接な、そして堅固なものとなるであろう。

日本が直ちに我々と共に対ソビエト戦に介入してくれなかったのは確かに残念なことである。それが実現していたならば、スターリンの軍隊は、今この瞬間にブレスラウを包囲してはいなかったであろうし、ソビエト軍ブダペストには来ていなかったであろう。我々両国は共同して、1941年の冬がくる前にボルシェビズムを殲滅していたであろうから、ルーズベルトとしては、これらの敵国(ドイツと日本)と事を構えないように
気をつけることは容易ではなかったであろう。他面において人々は、1940年に、すなわちフランスが敗北した直後に、日本がシンガポールを占領しなかったことを残念に思うだろう。合衆国は、大統領選挙の真っ最中だったために、事を起こすことは不可能であった。その当時にも、この戦争の転機は存在していたのである。さもあらばあれ、我々と日本との運命共同体は存続するであろう。我々は一緒に勝つか、それとも、ともに亡ぶかである。運命がまず我々ドイツを殲滅してしまうとすれば、ロシア人が“アジア人の連帯”という神話を日本に対して今後も長く堅持するであろうとはまず考えられない」(1945年2月18日)ベルリン。 

 

本書の最大の読みどころは、90ページに及ぶ翻訳者・篠原 正瑛氏の詳細な解説である。
ヨーロッパで開戦してからドイツに留学を強行した哲学を学ぶ学生だった篠原氏。
あまり知られていないが、枢軸国が勝った際には、ドイツでは日本語を必修にする計画があった。そのモデル校の講師に、篠原氏が抜擢される。
ヒトラー政権下のドイツに滞在していただけあって、「我が闘争」に関する素晴らしい論究を残してくれている。
我が闘争は一度も改訂されたことはなく、ヒトラーは日本および大和民族について悪く書いたことがなかった。>と。

 

 山崎三郎氏(独協大学教授)の『ユダヤ問題は経済問題である』には興味深い話が紹介されている。日産自動車の実質的な創業者で満州重工業の総裁であった鮎川義介氏がドイツを訪れてヒトラーに面会した時のことである。
ヒトラーは鮎川氏に対し、次のような意味のことを語ったという。

「貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツが作っているような工作機械は作れないだろう。しかし、ドイツがどうしても日本にまね出来ないものがある。それは貴方の国の万世一系の皇統である。これはドイツが100年試みても、500年頑張っても出来ない。大切にせねば駄目ですよ」。

併せて読みたい 「ドイツにヒトラーがいたとき」 篠原 正瑛 1984  誠文堂新光社