日本に古代はあったのか (角川選書) 2008/7/10 井上 章一 (著) 、藤原不比等1997/3/1いき 一郎 (著) 三一書房

日本では明治以後、武家の台頭が中世の起点となるが、中国の中世は日本より数世紀先んじている。
一方、西洋には古代がない国もある。北欧やドイツには古代がなく、中世から始まる。
地中海世界の古代から周辺世界の中世へとつながる流れを、中心世界であった中国と周辺世界であった日本にも応用できるのではないかということだ。
ではなぜ日本史には厳然として古代という時代区分が設定されているのか。
世界史の潮流から見れば古代は設定しなくとも日本の歴史は語ることはできるのに。

 

藤原鎌足の子であり、藤原時代の始祖となった藤原不比等(659~720)、。記紀編纂を牛耳り、律令国家=天皇制国家をつくりあげ、強大な力を持った人物。この史上最大の「悪人」の表と裏を、民間研究者が15年の歳月をかけて追った。

 

異例の2冊同時に取り上げたのは、たまたま2冊手元にあったからである。
ただ、私の見るところ、2冊は微妙につながってる。

 

井上章一氏は好きな書き手である。
1955年京都府生まれ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター勤務。
はんなりとした語り口で(笑)、風俗・歴史を斬るといった作風かと思っている。
「霊柩車の誕生」や「桂離宮」は取り上げるテーマも面白い。

国際日本文化研究センターというところに勤務しているだけに、日本に興味をもった外国人との対話をはさみながら、日本史の区分の問題に鋭く切り込んでいる。
北欧やドイツには古代がなく、中世から始まる。
地中海世界の古代から周辺世界の中世へとつながる流れを、中心世界であった中国と周辺世界であった日本にも応用できるのではないかということだ。
ではなぜ日本史には厳然として古代という時代区分が設定されているのか。
世界史の潮流から見れば古代は設定しなくとも日本の歴史は語ることはできるのに。

 

7章以降は、「中世は鎌倉から、近世は江戸から」という区分の起源が問われる。
どうやらこれは明治期以降、ローマ帝国ゲルマン民族の歴史を畿内と東国に矮小化して投影し、「停滞的な近畿、新時代を開く関東!」という関東史観が蔓延ったことによる。そこには「中国文明に汚染された京都を否定する」という意味で、脱亜入欧の夢も混入していた気配もある(p174)。石母田正に見られるように、戦後のマルクス主義史観でさえ、この弊を逃れていない(p208)。

〈目次〉まえがき
一、宮崎一定にさそわれて
二、内藤湖南から脈々と
三、ソビエトの日本史とマルクス主義
四、弥生は神殿はあったのか
五、キリスト教と、仏教と
六、応仁の乱
七、鎌倉爺体はほんとうに鎌倉の時代だったのか
八、江戸から明治の頼朝像
九、ゲルマニアになぞらえて
十、平泉澄石母田正
十一、東と西の歴史学
十二、京都からの中世史
十三、ライシャワー封建制
十四、司馬遼太郎よ、お前もか
十五、梅棹忠夫のユーラシア
あとがき

正統的な、学術先生の日本史解釈のいまが知れてよかった。
…だが、そんな甘いもんと、ちがいまっせ、井上はん((笑))と、言いたくなる。
…そんなことよりこっちの方が重要だろうと言いたくなる。

つまり、日本に古代があろうとなかろうと、もっと大切な、西暦で言えば700年くらいに国家権力の移動があったと、私を含め「九州王朝」論者は思っている。
みんな、藤原不比等に騙されている。
たった20年ばかり(親父の鎌足を含めれば5,60年)の仕事で 藤原レジーム(藤原氏独裁政権)を作り上げた不比等は凄いと思う。

不比等が精魂を傾けた最大の仕事が、「修史」作業だろう。
古事記日本書紀を完成させ、風土記の編纂も手掛ける。
しかし、不比等のしごとのうちで、最も成功したのはおそらく、「聖徳太子の創造」(主に大山誠一説)であろう。

藤原不比等の能力のひとつに、文字づくりがある。
天皇という字の使用は720年の日本書紀完成以前という説が成立するならば、この重要な字の案出、使用には当然、不比等がかかわっていたと考えられる。
また、ヤマトは倭、大倭の訓となったが、この読み方も、邪馬台国論の基本にかかわる大きな判断の分かれ目となる。
不比等は、倭をヤマトと読ませ、大和とするなかで、巧みにヤマト=日本、ヤマトを日本の古代の中心に置き換えてしまったのである。
これはずる賢いすりかえ、移動、引き伸ばしである。しかし、中国の記録にはそうは書いていないのである。」(藤原不比等1997/いき 一郎)

 

ともあれ、藤原氏の前身となる中臣氏は、大化の改新以前において、少なくとも天皇の代行として国政の中枢に参与できるような家柄ではなかったということだけははっきりと断定することができる。
その点は、「公卿補任」を参照すれば歴然としている。
随分と昔のことだからはっきりとした証拠があるわけではないが、何らかの形で、「系図買い」、家系詐称があったのではないかと思っている。

後世の戦国時代でも、地方の武士の中に系図を買い取り、一定の待遇で長く面倒を見た例がある。
伊達政宗は山形の鮎貝氏(現在、JR駅名で残る)を滅し、系図を買い取り、奥州藤原氏からでたという鮎貝氏を伊達藩の僻地、気仙沼に住まわせた。
伊達重臣48館の一氏という厚遇で、1500石とも3000石ともいい、明治維新に至った。(気仙沼郷土史会文書)

 

上山春平(1921-2012)という哲学者がいた。
神々の体系 続 上山春平/著 中央公論社1981中公新書 394 
元・特攻隊隊員の京都大学哲学教師の、藤原レジーム(藤原氏独裁体制)解明の、批判の嚆矢である。
日本人が戦後書いた中で、ベストスリーに入る著書だ。
素晴らしいからぜひ読んでほしい。特に神々の体系の続巻が素晴らしい。
上山氏は、出撃せんとする特攻兵器である「回天」の操縦士として二度の特攻出撃を経験するも、九死に一生を得て生還しているが、潜水艦の艦内で、暇を見つけ読みふけったのが「古事記」だという。

8世紀初頭にできた律令体系が、明治維新に至るまで公法として命脈を保っていたという事実。鎌倉幕府江戸幕府は、律令制に寄生するかっこうで、一種の二重政権をつくっていたのである。
その意味するところは、「本来、天皇の委任によってその地位を正当化されるタテマエになっている将軍が、天皇の意志にさからうということは、自らその地位の正当性を否定するものだ」(一種の革命権ないし抵抗権の論理)という倒幕正当化の論理である。
上山春平氏が、神々の体系(正続)を通じて解き明かそうとするのはこの委任/受任のからくり、すなわち8世紀から19世紀に及ぶ日本国家の本質である。
記紀神話イデオロギー性を強調するのは津田左右吉以来の定説であるが、上山説では神話の制作主体を天皇家よりむしろ藤原氏に見る。
続編では記紀神話の構造分析に焦点が合わされる。

 

藤原レジーム(藤原氏独裁体制)というべき、藤原不比等の工作に日本で初めてメスを入れた人物として特筆すべきだ。
法隆寺移築説」を隠しおおせているのもこれである。
ほころびも見えてきてるが、見えていない、わかっていない連中、有象無象が頑なに 否定にやっきとなっているのが現状と思う。

井上章一氏に、いやこれを読んでるあなたに、そういう(西暦で言えば700年くらいに国家権力の移動があった)認識はあるかな?
いや、並立してただけだから、移動はなかったかもしれないが。

藤原氏の支配が日本の歴史におけるキモだと、言い始めてる人は少なからずいる。
上山春平 → 大山誠一氏(聖徳太子はいなかった) → 藤原不比等1997/いき 一郎 → 関裕二氏
それぞれが優れた仕事をしている。

 

併せて読みたい
聖徳太子と日本人 2001/5/25 大山 誠一 (著)風媒社  その後、角川ソフィア文庫に収録されています。
聖徳太子は架空の人物だった。誰が、いつ、何のために「聖徳太子」を作ったのか。日本人にとって「聖徳太子」とは何だったのか。聖徳太子の謎を解明し、天皇制の本質に迫る意欲作。

狂気と王権 (講談社学術文庫) Kindle版 井上章一 (著) 講談社 (2008/2/10)
女官長の不敬事件、虎ノ門事件、田中正造直訴事件、あるいは明治憲法制定史、昭和天皇「独白録」の弁明など、近代天皇制をめぐる事件に「精神鑑定のポリティクス」という補助線を引くと、いったい何が見えてくるか。「反・皇室分子=狂人」というレッテル貼り。そして、「狂気の捏造」が君主に向けられる恐れはなかったのか?独自の視点で読み解くスリリングな近代日本史。