マッカーサーに語ったこと「昭和天皇「独白録」の弁明」 狂気と王権 (講談社学術文庫) 井上章一 (著) (2008/2/10) 元女官長の不敬事件、虎ノ門事件、田中正造直訴事件、あるいは明治憲法制定史、昭和天皇「独白録」の弁明など、近代天皇制をめぐる事件に「精神鑑定のポリティクス」という補助線を引くと、いったい何が見えてくるか。「反・皇室分子=狂人」というレッテル貼り。そして、「狂気の捏造」が君主に向けられる恐れはなかったのか?独自の視点で読み解くスリリングな近代日本史。

全編素晴らしいが、特に興味深い、第7章 マッカーサーに語ったこと「昭和天皇「独白録」の弁明」、第8章 皇位簒奪というイリュージョン「秩父宮226事件」を取り上げたい。

 

昭和20年9月27日。昭和天皇マッカーサー、二人が初めて会ったとき、昭和天皇が言ったことについて様々な声がある。
マッカーサー回顧録」(1964津島一夫訳)によれば、
「私は天皇が、戦争犯罪人として起訴されないように、自分の立場を訴えはじめるのではないかという不安を感じた。……しかし、この私の不安は根拠のないものだった。

天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。
『私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』
私は大きい感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまで揺り動かした」

 

ジョン・ガンサーという内幕ものを得意とするアメリカのジャーナリストがいて、「マッカーサーの謎リドル1951」という興味深い本がある。
1950年(昭和25年)、来日し、GHQの後押しもあったのだろうが、昭和天皇との単独会見もやってのける。その中で、マッカーサーから聞いた話として、こんなやりとりを昭和天皇との間でしたという。


「わたしの国民はわたしが非常に好きである。わたしを好いているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしをきっと精神病院か何かに入れて、戦争が終わるまでそこに押し込めておいたに違いない。また国民がわたしを愛していなかったならば、かれらは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう」(木下秀夫訳)

 

さらに、昭和天皇は戦後の回想(昭和天皇独白録1990)の中で、このように述べている。
「私がもし開戦の決定に対して、『ベトー』をしたとしよう。国内は必ず大内乱になり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても結局、凶暴な戦争が開始され展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦もできかねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」
『ベトー』とは、ラテン語の拒絶を意味し、もし、自分が戦争に反対すれば、殺されていただろう、戦争を押しとどめることは、誰にもできなかったというのである。

 

如何であろうか。ずいぶんとニュアンスが、また内容が違っているようだ。
マッカーサーのそれは、帰国後、アメリカに帰ってからのものである。
226事件の首謀者の青年将校グループと秩父宮の関係については論考も多い。
結局のところ、何も関係はなかったということだが、秩父宮のスポーティーな外見などもあって、青年将校グループに担ぎ上げられてたのは事実だったようである。
昭和天皇自身が、大正天皇の摂政として急遽、名代に祭り上げられたのだから、「国民はわたしをきっと精神病院か何かに入れて、戦争が終わるまでそこに押し込めておいたに違いない。」という見方をするのもうなずけると井上章一氏は言う。
私もその見方に賛成だ。

 

ここで私なりにマッカーサーの胸中を推察したい。
マッカーサーは厚木に降り立ったときから、とにかく、相当ビビっていたに違いないと思う。
マッカーサーは厚木に降り立ったとき、失禁していた」(高山正之氏エッセイ)

バターン死の行進なども、いつの間にか、日本軍が悪いということになってるが、もとはと言えば、マッカーサーコレヒドールの戦闘を放棄して自分だけで逃げ出したことに由来する。
オキナワ(バックナー中将爆死)、カミカゼ硫黄島、タラワ……。

キチガイじみた戦いぶりの、昭和天皇は何といっても最高司令官様である。
キル・ジョンウンか臭菌平を数等倍上回る悪魔キャラを想像してたに違いない。
ところが、会ってみて……。
混乱して信じられなかったに違いない。

 

マッカーサー高松宮のことは嫌ってたみたいだ。マッカーサー元帥と昭和天皇 (集英社新書)  117P
昭和天皇だけがお気に入りだったようだ。
それについては、マッカーサー日系人説(笑)まで出たという。マッカーサー元帥と昭和天皇 (集英社新書)  108P
色々な人が色んなことを言ってるが、私は昭和天皇のお人柄がマッカーサーを虜にしたんだと思ってる。

 

あと、大切なこと。
人種差別の世界だったということ。
みんな忘れてるが、人種差別という厄介なもの。
 昭和天皇は戦後の回想(昭和天皇独白録)の中で戦争の遠因として以下のように述べています。
「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。
日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。又青島還付を強いられたこと亦然りである。
かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」

 

人種偏見、差別の強い白いアメリカで黒人の次に日系米人は強い差別を受けていた。
大正13年5月31日 アメリカ大使館に隣接する空き地で割腹の自刃を遂げた無名の青年がいました。アメリカ国内では「反日機運」が強くなり、その年の4月に「排日移民法」が成立したことに対して、
「生きて永く貴国人に怨みを含むより、死して貴国より伝えられたる博愛の教義を研究し、聖基督の批判を仰ぎ、併せて聖基督により、貴国人民の反省を求め…」と遺書を残しアメリカに抗議しての自決でした。

↑黒人の大統領が出てきたり、今じゃ考えられないだろ、こんなの。騙しだまし、やってきたけど、堪忍袋の緒が切れったってところか。

 

昭和天皇はほんとに立派だ。
会ったこともない人だが、感謝の気持ちでいっぱいになる。

映画『太陽』オフィシャルブック  2006/アレクサンドル ソクーロフ (著), Aleksander Sokurov (原名)太田出版
終戦前後の昭和天皇の葛藤を赤裸々に描いたロシア映画『太陽』。世界各国で絶賛されながら日本公開が危ぶまれた、この作品の全貌がついに明らかに!アレクサンドル・ソクーロフ監督へのロング・インタヴューから。


天皇を国家の頂点に輝く特別な存在にして、国家機構から切り離したのは、非常に賢明なやり方でした。だからこそ敗戦が決定的なものになって政府が壊滅したときでも、日本の国民は、自分たちの利益を擁護してしてくれる存在を失わずにいられたのです。たとえば、ドイツの場合を見てごらんなさい。しかし、日本には天皇がいました。戦いではなく、話し合いの相手として……。
アメリカの歴史学者などの中には、「天皇は自分の命を救おうとしただけだ」という意見もあります。しかし、自分を守るにもいろいろなやり方があるじゃないですか。天皇はその中で最も危険な方法を選んだのです。いつ殺されてもおかしくない方法をね。
自分から現人神としての権限を剥ぎ取り、アメリカ人たちと対話を始めようとした天皇の決断は、国民を救う行為でした。まさにこのために、天皇制という制度が長い間存在してきたのだと言っていい。
アメリカ代表のマッカーサーは、天皇と会って、彼の話を聞き、その考え方に触れて、天皇という人物に、理解できない狂信者ではなく、世界の文明の一部を担う一人の人間の姿をみたのではないか。昭和天皇はじっさいにそいう人間であったはずです。」

 

日本が分割されなかったのは、沖縄と硫黄島カミカゼマッカーサーを心服させた昭和天皇(敗戦のご決断も昭和天皇)が大きい。
英霊たちに感謝…。
日本がアメリカに負けた時の君主が昭和天皇で本当に良かった。

 

英米本位の平和主義を排す 作者:近衛文麿 大正七年 1918年
https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%B1%B3%E6%9C%AC%E4%BD%8D%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%82%92%E6%8E%92%E3%81%99
次に特に日本人の立場よりして主張すべきは、黃白人の差別的待遇の撤廢なり。かの合衆國を初め英國殖民地たる濠洲、加奈陀等が白人に對して門戶を開放しながら、日本人初め一般黃人を劣等視して之を排斥しつゝあるは、今更事新らしく喋々する迄もなく、我國民の夙に憤慨しつゝある所なり。黃人と見れば凡ての職業に就くを妨害し、家屋耕地の貸付をなさゞるのみならず、甚しきはホテルに一夜の宿を求むるにも白人の保證人を要する所ありと言ふに至りては、人道上由々しき問題にして、假令黃人ならずとも、苟も正義の士の默視すべからざる所なり。卽ち吾人は來るべき媾和會議に於て英米人をして深く其前非を悔いて傲慢無禮の態度を改めしめ、黃人に對して設くる入國制限の撤廢は勿論、黃人に對する差別的待遇を規定せる一切の法令の改正を正義人道の上より主張せざる可からず。

 

併せて読みたい
マッカーサー元帥と昭和天皇 (集英社新書)  2000/1/18榊原 夏 (著)
昭和天皇が笑った。いや笑うことはあったろうが、このように写真に写っての大笑いはかつて我々国民には知らされたことがなかった。終戦後、いわゆる「人間宣言」され、「国民統合の象徴」となってからも、写真の壁は厚かった。今、マッカーサー記念館の扉の奥から解放された天皇のこの笑顔を見れば、GHQの報道写真への自由な取組みかたが分かる。衝撃的だった元帥と天皇の会見写真も実は三枚あった。そのすべてが今公開され、戦後史の貴重な謎の部分が浮かび上がろうとしている。日米史研究の俊才が掘り起こした貴重な新事実。

 

岩田温『人種差別から読み解く大東亜戦争』(彩図社) 文庫とは思えない屈指の密度 ぜひ、読んでほしい。
 本書の基調をなす基本的テーマは日本の国際連盟における「人種差別撤廃決議案」と「大東亜会議」の精神である。
いずれも現代日本では保守論壇においてのみ、議論となるが、左翼を含めた論壇では完全にネグレクトされてきたテーマでもある。
 大東亜戦争が「侵略戦争」であり、朝鮮、台湾、シナを「植民地」として搾取したという奇妙奇天烈な史観は、本書を読むまでもなく、
左翼史家とGHQが合作した戦後の似非歴史学(いや、歴史というよりプロパガンダだろうが)である。
日本が大東亜戦争を開始したとき太宰治高村光太郎も狂喜乱舞の心境、これで長らくもやもやとしてきた心理的な靄が晴れたというような表現をした。
日本中が開戦に同意し、支持し、人種差別と搾取、人間を奴隷扱いしてきた欧米英国に対する正義の戦争だと考えていた。

 

当時、広島市総務課長だった小野勝氏が次のように書いている。
「水を売ったような静けさも御言葉が終わると同時に破れた、ドッと上がった万歳の声、再び飛ぶ帽子、舞うハンカチ、溢れる涙、
こんな国民的感激を、こんな天皇と国民との感情の溶け合いを、何時、何処で、
誰が味わったであろうか」(小野勝「天皇と広島」広島文化社S24年)
 天皇巡幸  全国を巡幸中の昭和天皇被爆地の広島市を訪問した。護国神社跡広場を埋め尽くした7万人の市民は
人間宣言をした象徴天皇を万歳で迎えた。帽子を振って応えるその先は爆心地方向で、原爆ドームが見える。
右は広島県商工経済会ビル=1947(昭和22)年12月7日 https://ironna.jp/article/1303?p=2

 

昭和天皇 地方ご巡幸 https://www.youtube.com/watch?v=GKJdH_z5qJs 69,677 回視聴 
戦後復興のミラクルはこの御巡幸にあると思う。何もかも焼き尽くされた国土に立つ国民は何を頼りに生くべきか。そんな時代であったと思う。 
昭和天皇にはこの国土を蹂躙したアメリカに憎しみこそ感じても、国民のことを思うと、自身が犠牲になれば国民が救われるならと言うお気持ちで 
マッカーサーに食糧調達を願い出た。
このような元首が他に存在したであろうか。
この国は天皇がおわす国なのだと言う誇りを改めて胸を刺した。

 

昭和天皇マッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
512,953 回視聴 chiwassu3923  2009/07/02 に公開
"Emperor Showa and MacArthur"The testimony of the interpreter 1945年9月27日、