椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書 (2584)) 2020/3/17 馬部 隆弘 (著)

椿井文書とは、もともと椿井村在住の椿井政隆(1770~1837)という人物による中世文書のコレクションとみなされていたが、これが稀代の偽書群だったのだ。
その総数は数百点に及ぶという。政隆が単なる収集家ではなく古文書の作成まで行っていた可能性はすでに1960年代から指摘されていたが「椿井文書」を利用した研究者の大半は、伝承まで創作したわけではなく、政隆は独自の取材で集めた伝承を古文書の体裁で中世に仮託したものだろうという解釈で今も使用し続けているのが現状であるという。

 

政隆は、各地域で出資者になりそうな有力者を探し出してはその人物と近隣の同階層の人を結びつけて縁戚関係を示す系図を作成する。
そして着到状(武士が合戦などに馳せ参じた順序を記した帳面)などで、その作成された系図で同時代とされた人物が同じ場所に居合わせたことがあるという「証拠」を作る。この作業を繰り返すことでその地域の歴史ができたなら、神社縁起などでその村などの領域を示す「伝承」を作る。
近世においては、地域の区画を示す古文書は現在の不動産登記のような役割を果たした。

 

政隆の椿井文書については絵もうまいことが特筆すべき点だ。絵図と合体した「古文書」は最強で、素人がみたら簡単に騙されるだろう。
本書196,197ページに「椿井文書」を引用する自治体史の表が載っているが、まさに壮観、こんなにも騙される自治体があるのかという驚きを感じる。

 

なにせ量が多いので著名な(悪名高い?)ものを挙げておく。
河内国交野郡藤坂村(大阪府枚方市)に、伝王仁墓という大阪府の指定史跡がある。
王仁とは、応神天皇の時代に「論語」や「千字文」を百済から日本へもたらしたとされる人物であるとされるが、実在を疑問視する研究者も多い。

 

この伝王仁墓は、文字も刻まれていない高さ約1メートルの自然石で、地元では歯痛やおこりに霊験あらたかであると信じられ、「おに墓」と呼ばれていた。
ところが、当地へ調査に赴いた並河誠所が、「おに」は「王仁」の訛りで、本来は「王仁」の墓であると「五幾内誌」(享保20年(1735年)出版)に掲載した。
さらに、藤坂村の領主である旗本久貝氏は、並河誠所の建言に従って、「博士王仁之墓」と刻んだ石碑を自然石のすぐ後方に建立する。
古墳が盛んに造られた時代の人物なのに、その墓が自然石ひとつというのも不可解である。
とはいえ、並河誠所がこの判断を根拠といわれる資料も実在する。

<中略>
しかし、結論から先に述べると、この資料も椿井政隆が作成した偽古文書である。
並河誠所は、「王仁墳廟来朝紀」と題されたこの史料を交野郡禁野町(枚方市)の和田寺で目にして、五幾内誌を書いたと考えられてきたが、しかしそこには、安産祈願の寺であることが記されているのみで、王仁に関する記述はない。

 

「平成18年(2006)には、伝王仁墓の前に韓国の全羅南道から運ばれた資材によって「百済門」なるものが建設された。
そのような交流を踏まえて、平成20年に枚方市全羅南道の霊岩郡は友好都市の提携を結んだ。椿井文書は、もはや国際的な問題にまで関与するようになっているのである」

 

「筆者は、かつて枚方市に在職していたころに、右のような誤解を招く文章は修正すべきだと、ホームページを管理する広報課などに口を酸っぱくなるほど忠告したが、残念ながら聞く耳を持ってくれなかった。そのときの危機感と無力感が、結果的に今も筆者にとって研究を進める原動力の一つとなっている。
精神的に不安定になりそうなときもあったが、同じ気持ちで晩年に著書を量産した三浦蘭阪という共感者を得たおかげで、孤独な闘いとならずに済んだのは幸いであった」

 

七夕伝説も大いに怪しいようだが、長くなりそうなのでこの辺りでやめておく。
興味を持たれたらぜひ読んでほしい。

 

最後に、まえがきで著者はいう。
東日流外三郡誌」(古代の東北に未知の文明があったとする偽書)のように、荒唐無稽な内容の明らかに偽作されたものは命脈を保てない。

 

東日流外三郡誌」は断じて偽書ではない。
よくいわれる、「天は人の上に人を作らず」という箇所だけが筆者の念頭にあったなら残念である。

北洋伝承黙示録―『東日流外三郡誌』の謎を解く 1997 渡辺 豊和 (著)新泉社
↑建築家である渡辺氏のこれを読むだけで偽書ではないことがわかる。

この問題、後述。