解死人の風景 : 差別があたりまえだったころ 石瀧豊美 著 イシタキ人権学研究所 2003年 「身代わりの作法」と共同体 八兵衛地蔵に思う
元禄7年(1694年)、年の瀬のこと、福岡の町で、一人の浪人が身代わりに立ち、罪をかぶって処刑された。
男の名は、森八兵衛。肥後の国出身の浪人だった。
福岡の須崎で火事場の喧嘩から、唐人町の火消しが他町の火消し3人を殺すという事件が起きた。相手の町は報復の気構えで武装を解こうとしない。
福岡の町中が緊迫した空気に包まれた。
その時、名乗り出たのが、肥後浪人・森八兵衛だった。
町の人たちの困窮を見かねて進んで身代わりに立つ八兵衛。
その八兵衛に、唐人町では永代供養を誓って感謝した。
これが唐人町に今も残る八兵衛地蔵の由来である。
被害者が火消し3人というところからすれば、加害者は複数とみるのが自然だろう。
ところが処刑されたのは一人、しかも「身代わり」であった。こう見てくると、法の執行の目的は「加害者の処罰」にはないことがわかる。
むしろ唐人町全体から一人の人間(まさしくスケープゴートであろう)を差し出すことが求められたのである。
戦国の作法―村の紛争解決 1987藤木 久志 (著)によれば、そういう場合、村があらかじめ扶養している乞食が差し出される場合が多かったという。
中世の説話「ものぐさ太郎」について、藤木氏は「村のために犠牲となるような存在を、日常的に村として扶養していたという、中世の村の生きた現実のうえに成立していた可能性が大きい」と指摘している。
いわゆる「解死人げしにん」の風習である。
「ものぐさ太郎」は、竹を4本立て、その上に「こも」をかけただけの小屋に住んでいて、日頃は村人の施しによって生きていた。
ところがある日、都から夫役(労力の提供)がかけられた時、当然のように「ものぐさ太郎」が都に上ることになる。
施しを受けることと、共同体の犠牲になることとが、表裏一体のものと考えられているのである。
併せて読みたい
戦国の作法―村の紛争解決 (平凡社選書) 1987藤木 久志 (著)