「魏志倭人伝を解く」序章 倭歌が解き明かす古代史 邪馬台国田川説の濫觴 福永晋三 同時代社 2021.9 九州王朝論の完成形?

一時のブームは去ったとはいえ毎月なにがしかの本が出版されている邪馬台国論。
ずっと以前から気になってはいたが今回、氏の著作を読んで、まとめて見て(ようつべの豊の国古代史研究会)、秀逸な邪馬台国論になっているので取り上げたい。

九州に2王朝が並立してたとは著者が初めて提唱したことだ。
香春・田川を中心に 神功皇后神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)、豊の国といい、
西側は久留米を中心にして「筑紫国?」、いわゆる「倭の五王」もここを拠点にしてた。
古田武彦の場合もそうだがきちんと丁寧に現場を歩けば、地名、神社、地区伝承にその痕跡が残っていることに驚く。
こういうのは論証がむずかしいが、とにかく、古事記日本書紀は当てにならない。
官符がでていないと考古学者はよくいうが、官符もなにも歴史を書いた側がそれを偽造しているのだから、そんなもん始めからあるわけない。
九州王朝論の再先鋭では、柿本人麻呂などは九州王朝の歌人であったのが当たり前みたいである。

 

田川というのは私自身考えたこともなかったが、香春岳近辺、豊前一帯が極めてくさいと感じていた。
重松明久という歴史家がいた。わたしの贔屓の歴史家である。
大分県出身、その重松氏が広島大学から車で帰省するたび、不思議に感じていたことがあるという。

それは福岡県京都郡(みやこぐん)の名前のこと。

こんな寂れた場所が、なんで京都(みやこ)なのかと。

不審に思って調べてみたら昔から(神代の昔から)、そこは美夜古といっていたことを知り驚く。
そこから、重松氏は邪馬台国豊前一帯にあったとの説を唱えることになる。

 

すでに明治時代に「神代帝都考」(狭間畏三)という名著がある。
古事記日本書紀に出てくる建国神話の部分、地名の重なりが豊前一帯に多すぎるという疑問から本業が医者の著者がこつこつと書き上げたものだという。
松本清張推理小説「鴎外の婢」に「神代帝都考」が登場し、物語展開に重要な役割を演じている。
近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であったことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。(中略)記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州にずっと以前からあったものとみなければならない。
ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、大化後の行政区画である豊前豊後のうち、豊前がその原体である。それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家のいずれも認めるところである。(後略)』
「海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の経路に分布していることでも知られる。地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおけるイングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を喪失していることは、日本紀略枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前の うたがきがはるかに古い証である。」

 

とにもかくにも、畿内説はすでに破綻しているのではないか。
三角縁神獣鏡が現在まで600枚以上も出土している。
小林行雄が分配説で畿内説を補強して一世を風靡したが卑弥呼が100枚しかもらってないのに(笑)、すでに600枚とはおかしいではないか。
三角縁神獣鏡はまちがいなく国産だよ。
世の大学の歴史学者たちはそれでも頑なに畿内説支持というのだから恐ろしい。

税金の無駄遣いではないのか。

 

福永氏はまえがきに言う。
2020年10月上旬、日本学術会議が推薦した会員候補6人が任命されなかった問題が起きた。「学問の自由への侵害だ」などと批判する声が内外に広がった。
しかし、先の日本学術会議に史学委員会があり、その分科会に「史学委員会中高大歴史教育に関する分科会」や「史学委員会歴史認識歴史教育に関する分科会」などがある。これらの構成員の多くが高校の日本史教科書を執筆し、邪馬台国近畿説や大和王朝奈良県発祥説を唱え、戦後の国民を洗脳してきたことは言を俟たない。
同時に、神武天皇神功皇后を語る人々を排斥し邪馬台国田川説はもとより、邪馬台国九州説を主張する学者を少数派として、無視もしくは軽視されつづけた。
こと古代史に関しては、日本学術会議こそがGHQ占領政策という虎の威を借りて、長らく、日本国民の「学問の自由」を踏みにじってきたのではないか。


↑痛快!! 全面的に同意する。その通り!!

 

さらに、あとがきに見逃せない記述を見つけた。
「ところで、最近読んだ本に、竹倉史人「土偶を読む」(晶文社)がある。例えば、「遮光式土偶サトイモの精霊像」といったような優れた「土偶の正体を解明した」書なのだが、いわゆる考古学の大家等からは非難の的になっているようだ」


↑なんと、なんと!! ↓

 

2023-02-28
土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎 – 2021 竹倉 史人 (著) 晶文社縄文時代に大量に作られた素焼きのフィギュア=「土偶」。 日本列島においては1万年以上前に出現し、2千年前に忽然とその姿を消した。 現代までに全国各地で2万点近くの土偶が発見されている。
130年間解かれなかったという縄文土偶の謎を全面的に解き明かすことに著者は成功している。

 

圧力団体としての現有勢力!
何のために存在するのかわからん。
シュリーマンの昔から、内外問わずアカデミーはダメだなあ。ため息しかでない。

 

邪馬台国倭人伝の記述であるのだから、倭人伝以外から証拠をとりだすことは不可能に思える。
九州説は、大分の水銀朱、福岡の絹、長崎の鉄、沿岸地域の海産物と、
次々と証拠を出して来ているのに、畿内説は箸墓古墳が最古の前方後円墳だとか、纏向遺跡は当代最大の都市だとか、
にぎやかのことばかり言って人の目をごまかしているが、実際は倭人伝とまったく関係のない話ばかりしている。

敢えて言うなら、纏向遺跡は、周辺の大古墳群造営のための「古墳造営キャンプ」であるという酒井龍一氏の見解に大賛成だ。
酒井龍一「古墳造営労働力の出現と煮沸用甕」1977
古墳造営の問題に関しては後述。
この狭い国に短い間に、15万とも20万ともいわれる古墳が造られたのは異常。

 

私がまず問題にしたいのは「邪馬台国論争」の「構造」のことである。
邪馬台国畿内説」に証明はない。あるのは、ただ「はじめに邪馬台国畿内説ありき」なのである。
ではなぜ、「はじめに邪馬台国畿内説」なのか。
それはそのように教育されたからである。
京都大学を中心として、その伝統にもとずき、考古学の分野で、そのような徒弟制度ができあがっているからである
その徒弟制度(いや、家元制度かな 笑))からはずれれば、就職も生活も出世も不利となる可能性がある。
邪馬台国畿内説」はいま学問的、科学的にはきわめて多くの問題をかかえながら政治的には勝利をおさめつつあるようにみえる。
恐ろしいことである。

 

邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない。
出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない。
邪馬台国畿内説」は確かな根拠といえる鉄の骨をもたない。
土の虚塔である、空中楼閣である。いつかはかならず崩壊する

「兵用 矛 楯 木弓」(魏志倭人伝)  矛のでてこない畿内はありえない
「竹箭或鐵鏃或骨鏃」(魏志倭人伝)  鐵鏃のでてこない畿内はありえない

 

併せて読みたい
邪馬台国の研究」(重松明久)昭和44年刊 白陵社
「神代帝都考」狭間畏三 (著) 昭39。明治32年版の再刊。
豊前王朝―大和朝廷の前身 2004/2/1大芝 英雄 (著) 同時代社

考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国  2020関川 尚功 (著) 梓書院