古代アフリカエジプト史への疑惑 (1974年) 木村 愛二 (著) 人類文明の母としてのアフリカ

これは以前紹介した「黒人→白人→黄色人」(高野信夫)の回答とも思える書だ。
現生人類は約5万年前、アフリカで発生した。
黒人アフリカ人の突然変異によりアルピノが生まれ、被差別集団が形成された。
彼らは、差別に耐えかねてアフリカを脱出した。そして、北上し現代ヨーロッパ人の先祖となった。

そのままかどうかはわからないが、どうやらその地・アフリカで人類最古の文明を育んできたのはアフリカ人・黒人らしいのだ。
栽培植物の起源(ヤムイモのこと。稲すらアフリカ起源らしい)、遊牧・牧畜の起源、鉄鍛冶の始まり、どれも極めて説得力がある。
しかしそのどれも白人学者たちのバイアスがかかるものだから、誤ってアフリカを認識している可能性が高い。

 

果たして、アフリカの当時の住民は、農耕を発明するだけの主体的な条件、つまり、技術や社会組織をもっていたであろうか。この条件も満たされなければ、白然環境の変化に対応した飛躍はむずかしい。そして、この点は、ほとんどの学者によって、ぼんやりとしか語られていない。
 ところが、アフリカ人こそが、当時の世界で、もっとも進歩的な文化をもっていたのである。
 たとえば、オリエント起源説の権化のようなイギリス人の考古学者、ホィラーでさえ、旧石器時代におけるアフリカ大陸の先進性を認めている。この場合、紀元前1万年に近い時期を考えると、単に旧石器文化というよりも、狩猟文化の全盛時代とした方がよい。そして、全世界から発見される狩猟用の飛び道具のすべてが、アフリカ大陸で発明された可能性が、ほぼ決定的なのである。

学者は、弓矢が、紀元前1万2000年頃、サハラで発明されたと認めている。それより古いものには投槍器がある。これはヤリを溝のついた棒にひっかけて飛ばすものであり、ニュージーランドやオーストラリアでは、現在も、主要な狩猟用具として使われている。オーストラリアといえば、ブーメランが有名だが、これもアフリカにあった。東南アジアやアメリカで使われている吹矢も、アフリカにあった。

文化人類学者の川田順造は、西アフリカのギニア海岸で長期間の研究生活を送ったのだが、百聞は一見にしかずというおどろきを感じたらしく、つぎのように書いている。
 「熱帯降雨林では、『栽培』というのは何よりもまず、植物の過剰な繁茂とのたたかいを意味する。……あぶら椰子やバナナなどの有用樹をまもるために、他の植物を、たえず『きりはらう』のである。……オアシスの椰子畑で、人が最もよく使う道具が、潅漑の水路を按配するための刃の幅の広い鍬であるのに対し、熱帯降雨林の大切な農具が、山刀であるというのも象徴性だ」(『マグレブ紀行』、p.22~23)

 では、山刀に類するものを、紀元前1万年頃のアフリカ人は持っていただろうか。
 もちろん、これもあった。しかも、大変古くからあった。ザイール(コンゴ)盆地を中心に、サンゴアン様式とよばれる面面加工石器(刃の部分を両面からけずったもの)が沢山発掘されている。その中には、木彫に用いられたらしいものとか、森林の伐採につかわれたらしいものとかがあり、なんと、この様式のはじまりは、約10万年前にもさかのぼることができる。おそらく最初は、住居をつくる材木を切りだしたり、槍や弓矢をつくったりしたのであろう。そして、すでに紹介したように、石のオノも出土している。異常乾燥期のアフリカ人は、充分に熱帯降雨林地帯にいどむことができた。たとえ中心部のジャングルに切りこむことはむずかしかったにしても、周辺部に農地を獲得する力量はもっていた。

シュレ=カナールは最近の急速な研究の前進を紹介し、つぎのように要約している。
 「人間の進化のすべての段階が、それに対応する石器の進化のすべての段階とともに、とぎれることなく、年代的に連続してあらわれているところは、世界広しといえどもアフリカ以外にはない」(『黒アフリカ史』、p.60)

 さて、学者たちは漠然と「人類の進化」と表現している。
ところが、「アフリカは人類そのものの源郷」と認めながらも、ホモ・サピエンスそのものの発生経過について、大変に奇妙な主張を押し通している。
これが第1の問題点である。どこが奇妙かというと、基本的には、ヨーロッパ人の「純粋性」を守り通したいという願望につきる。
この願望の表われは、学説史の経過をたどることによって、はっきりしてくる。
 3大人種系株説なるものは、実際の発見に照らして考えるなら、ヨーロッパ型ホモ・サピエンス単元説の名残りでしかない。セネガル人のディオプは、以上の諸発見が相ついだのちの1963年に、パリで、ある高名な学者が、つぎのようにのベるのを聞いたと、皮肉な調子で紹介している。

 「ネグルとブロン《白色人》とジョウヌ《黄色人》との間の人種形質の相違は、あまりにも大きいから、4万年さかのぼってみたところで、あとの2者が、原始的ネグロイド形質のものからの亜種としてつくられたと想像するのは、馬鹿げている。そのころには、3つの人種は当然、はっきりしたそれぞれの性格をもって、この地上に存在していたにちがいない。考古学はいつの日にか、最初のオーリニャック期のネグロイドと同じように古い、ブロンの化石人骨を発見すろであろう」(『黒色人文明の先行性』、p.15-16)

 要するに、考古学上の証拠は、この「高名な学者」の希望を逆転する方向に積み重ねられているのである。かつては、クロマニヨン人の化石のみをもとにして、ホモ・サピエンスのヨーロッパ起源を主張し、ピルトダウン人の偽造まで行ったヨーロッパ流人類学は、ここまでの破綻を示している。

 

新石器時代に、毎年の氾濫にひたされていたサハラのどこかの地域には、農耕が発明されるための大きな機会があった」(『アフリカの歴史』、p.59)
 つまり、サハラ先史美術の発見は、農耕文化のサハラ起源説までみちびきだした。もちろん、サハラ先史美術、農耕・牧畜・新石器文化の発見についても、ただちに、年代の引き下げ、外部からの影響を論ずる学者は出現した。
 たとえば、イギリスの考古学者、アーケルは、すべてのアフリカ文化を、エジプトからスーダンのクシュ帝国を通って伝播したかのように主張する。彼によれば、クシュ帝国の文化の中で、価値のあるもののすべては、エジプト人による征服によって伝えられたということになっている。彼はその時代を、紀元前約1500年という、非常に遅い時期に設定し、つぎのように主張している。

 「この時代のエジプト芸術に、アフリカの黒人や猿がひんぱんに表わされていることは、黒人の居住する地方とエジプトとの接触が当時初めてなされたものであることを明瞭に物語っている。それ故、私の考えでは、沙漠地帯以南の岩面絵画のほとんどすべては、紀元前およそ1500年以前にはさかのぼりえないものであり、この時代にエジプト人がクシュの国に築いた神殿の壁の装飾が、アフリカ人に絵を描くという観念をはじめてもたらしたように思われる」(『アフリカ史の曙』、p.17~18)

 

「サハラ先史美術」 「タッシリ文明」最新情報 『日本経済新聞』(2001.5.7.夕)

「あすへの話題」欄 タッシリ文明 松浦 晃一郎 (ユネスコ事務局長)
 タッシリの中心地であるジャネ市の博物館はまだ小さい博物館であるが、旧石器時代の石器から始まり発掘物がきちんと展示してある。地元の考古学者の説明によれば一番古い彫刻は紀元前1万1000年のもので、これは旧石器時代の最後にあたる。新石器時代紀元前1万年から始まり、それから約1万年にわたる彫刻や岩絵が1万5000点以上、タッシリに存在するという。
 この地の遺物は紀元前6000年以降と従来言われていたが、それよりもさらに5000年さかのぼる。時代測定がより正確になり、以前言われていたよりも古いことが判明したということであった。

 

1960年代も後半になってから「ブラックアテネ」(マーティン・バナール)という同趣旨の本がやっとイギリスのユダヤ人によって書かれることになる。
エジプト文明は黒人によって作られ、初期のギリシャ文明もまた植民した黒人によって築かれた。ゲーテの愛した、ニーチェの愛したギリシャ文明が黒人によって!?
反発も凄く、大論争を巻き起こし、現在も継続中である。
やり取りを見ていて感じるのはヒトラーの影響のものすごさである。
白人たちは生理的な反発を感じ、「ブラックアテネ」を攻撃したいが、ここは21世紀である(笑)。
そういう面も日本人としての読みどころである。

 

併せて読みたい
ブラック・アテナ―古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ〈1〉古代ギリシアの捏造1785‐1985 (グローバルネットワーク21“人類再生シリーズ”) 2007/4/1
マーティン バナール (著), Martin Bernal (原名), 片岡 幸彦 (翻訳) 藤原書店
『黒いアテナ』批判に答える (上) 2012 マーティン・バナール (著), 金井和子 (翻訳) 藤原書店
アフリカ大陸史を読み直す〈第1巻〉古代文明の母  2007木村 愛二 (著) 社会評論社
「黒人→白人→黄色人」(高野信夫) 三一書房 1977 ← 1部でトンデモ本扱いされているが、そう言ってる連中がトンデモ。真実はいつも新しい。

 

本作はインターネットで全文公開されている。ありがたいことである。ご興味のある方は検索してみることを進める。
私自身、20年くらい前に古本屋で購入してから繰り返し読んでいる愛着ある本である。
これを処女作で書き上げた著者の熱意には感服する。