国境を超えて―東アジア海域世界の中世 1997/村井 章介 (著)校倉書房 歴史はつながっている。

いまも紛争の絶えない国境問題。望ましい国家間の関係のあり方とは。中世の東アジア海域を対象に国際交流に関する論文を収集。現代にも通じる、国境問題について考察する。


まずは、鉄砲伝来にまつわる既成概念の打破から、
種子島に漂着したのは、ポルトガル船ではなくシナのジャンク船で、密貿易のためにたまたま鉄砲をもったポルトガル人3人が乗っていたが(シャム・タイから逃亡したお尋ね者だったらしい。ポルトガル人が著書で証言)、船自体は純粋にシナのものだったという話。漂着して、浜辺で船長のシナ人と砂に文字を書いて筆談が始まったという。

 

本書の最大の読みどころは、第3章 211ページ~ 「中世日朝貿易における経典の輸入 貿易商品としての経典」。

この時期の日朝貿易でもっとも重要な日本側の輸入品は、仏教の経典、その全集成である大蔵経であったという。

一方、李氏朝鮮は、国家政策としては、高麗朝の仏教優遇政策をやめて、儒教主義のもとに仏教を排撃した。
当時、朝鮮にあった大蔵経は、13世紀前半のモンゴル帝国による侵略のさなか、国を守る願いを込めて刻造された8万枚の版木で印刷されたものだったが、李氏朝鮮にとっては無用の長物と化し、官吏の中には、「大蔵経は異端の書だから、焼き捨てても構わない」と極端な意見を吐くものもいた。

 

一方、当時の日本は有数の仏教国でありながら、何万枚もの版木を統一的な規格で刻造するだけの技術力と労働力編成を欠いており、各寺院の膨大な大蔵経需要は、もっぱら輸入品で満たさざるをえなかった。
ここに、双方の利害が一致し、大蔵経は日本側にもたせるみやげ物として絶好の品になった。

 

以降、日本側の大蔵経を求めての依頼が殺到し、1539年の大内義隆による求めに至るまで、150年間に、判明するだけでも50部以上の大蔵経が日本にもたらされ、求請の回数でみれば80回を超えるという。
それはあくまで公式のもので、密貿易商人の暗躍を加えれば、圧倒的な数の日本人が大蔵経欲しさに、李氏朝鮮に殺到した150年であったという。


私が皆さんに紹介したいのは、ここからである。
そんな背景があって、李氏朝鮮の宮廷に入り込む倭人もいた。

倭人・野人(女真人)といわれ、李氏朝鮮の宮廷にならばされ皇帝の拝謁を受けた。
野人(女真人)・倭人に対する朝鮮側の意識のあり方は、「野人は犬羊と異なることなく」、「島夷は人類の範疇に入らず」という表現のように、人間以下の禽獣としかみなしていなかった。にもかかわらず、元日朝賀のようなハレの場で、倭人・野人(女真人)はなくてはならない存在だった。
朝鮮にとって、彼らを従えることで王権は中華意識を満足させられたからだ。

 

肝心なところはここからである。

長い間、禽獣のように見下していた倭人がやがて、文禄慶弔の役で攻め込んできて、明らかにその影響で明朝が弱体化していき、倭人とともに徹底的に見下していた野人(女真人)が清朝として勃興して、彼らに支配されなければならなくなった時、

 

彼らの心中は??
堪らない屈辱であっただろう。
身を斬られるような?
うまい譬えが見つからない(笑)。

 

歴史はつながっている。
韓国併合について、韓国人、朝鮮人がなんと言おうとかまわない。

ただ私は現在の韓国の歴史教科書の記載について、大いに疑問がある。
ぜんぶおかしいが、とりわけ許せないのが、日本の敗戦についての記述だ。

 

韓国はことあるごとに自国を「第2次大戦戦勝国である」と主張し、学校の教科書でも「韓国人は連合軍の一員として日本と戦った」と教えている。
だが、事実は全くその逆である。

 

大東亜戦争が始まると、特別志願兵募集に朝鮮の若者が殺到した。42年には、採用数4077人に対し、25万4273人が応募している。
適齢期の健康な男子の大半が志願したことになる。朝鮮は儒教国家であり、応募するには父母、親族の許しが必要であった。
大東亜戦争へ対する朝鮮民族全体の圧倒的な支持があったことがうかがわれる数字である。

大東亜戦争で、軍人と軍属合わせて合計24万人あまりの朝鮮人が前線に赴き、アジアの植民地を解放するために日本人と生死をともにしたのだ。

歴史はつながっている。無論である。

 

第2次大戦戦勝国である」というのは、間違いではないかと、なぜ、韓国人にそれが面と向かって言えないのか不思議で仕方がない。