海浜型前方後円墳の時代 2015/(公財)かながわ考古学財団 (編集)同成社 いったいどこの誰がこのような僻地に、このような壮大な古墳を築いたのか?

海上から目視可能な交通の要衝に造営された海浜前方後円墳を集成し、その立地の意義や築造背景、古墳時代の海民統治などの実態を、新たな視点から追究する。全国の海浜前方後円墳分布図と一覧表を収録。 


海浜前方後円墳の時代」という良書がある。

 

2000年というから最近発見されたともいえる。

長柄桜山古墳群は、相模湾東京湾を画する三浦半島北西部の付け根に位置し、現在の逗子市と葉山町に位置する。
近所に住む東家洋之助氏が散歩中に偶然、埴輪を発見したところから、この大発見につながった。

1号墳を500メートル離れた場所に2号墳がある。

現地へ2度行ったが、断崖絶壁にそそり立つ大古墳である。
地上から見ても、ああ小山だな程度にみえる大古墳である。
よくぞ、発見したものだと大いに関係者を称えたい。

 

3世紀後半の築造らしい。
するといわゆる、ヤマト政権とはいっさい関係ない、

いったいどこの誰がこのような僻地に、このような壮大な古墳を築いたのか?

長柄桜山古墳群の謎は深まる。
謎中の謎である。


本書第1章が素晴らしい(広瀬和雄)

④ 魏志倭人伝の「一支国」で有名な壱岐島には6世紀後半7世紀前半にかけて古墳が300基つくられている

 

…可耕地が乏しく、玄武岩の大地に覆われた壱岐島にこれだけの有力古墳を支持するだけの食料増産は望むべくもないから

…いっそう海浜前方後円墳の「不自然さ」が際立つ

…農耕生産が保証されない地形、可耕地が少ない地形環境だけが領域であるならば、大型墳丘をつくる力量をどのようにして首長層は蓄えたのか

…たとえば、新羅伽耶からもたらされた鉄素材に対して、倭国から運ばれた「もの」の痕跡が彼の地では
ほとんど認められないという事実がある。「もの」が南部朝鮮から一方的に日本列島に運び込まれている。
倭王に「徳」を下賜したとみなせるなら事情は異なってくるが、そうしたことを表す証拠はない。

…中央からもたらされたり、そこを経由したとすれば、見返りは何であったのか。格別の特産物も今のところみあたらない。


畿内に存在する初期の古墳、たとえば和歌山県岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群とか、岡山県にある群衆墓などは誰が見ても、一族類縁者が築いたものだ。だが、そのほかの古墳に関しては、私は大部分、墓ではなかったとの見方である。


銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 2010 臼田篤伸 (著) 彩流社
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。
天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの労働力とされた 。巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった。
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。


地味な考古学者であまり知られていないが、茂木 雅博という重要な考古学者がいる。

茂木 雅博(もぎ まさひろ、1941年(昭和16年)12月24日 - )は、日本の考古学者。茨城大学名誉教授。土浦市立博物館館長。学位は、博士(歴史学)。

 

日本に残っている古墳は大部分、寿陵ではないかと提唱している考古学者である。

 

寿陵とは、生きているうちに自分や家族が入るためのお墓を建てることで、生前墓とも言われています。 寿陵の歴史は中国で始まり、日本でも聖徳太子が建てたと伝えられています。 寿陵を建てることは縁起の良いことで、長寿や子孫繁栄を招くと言われています。2022/02/25


前方後円墳 埋葬されない墓をもとめて』同朋舎出版、1992
古墳時代寿陵の研究』雄山閣出版、1994
天皇陵とは何か』同成社、1997
『日本史の中の古代天皇陵』慶友社、2002


古墳は果たして墓なのか。墓といえるのか。
一見、自明のように思える設問だが、そうではなさそうである。

茂木 雅博氏は、臼田氏が、思考の突破口となったという、考古学者である。
およその数字、9割近くが古墳内に棺、石棺がない状態だという。
墓といえるものもある。無論である。
だが、ない古墳もそれだけあるという。


「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
                    
   ピラミッドの謎 (1976年) クルト・メンデルスゾーン (著), 酒井 伝六 (翻訳)


「あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳ができるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が突如として築かれる場合がある。いまのところこの謎はちょっと解けない。」

考古学者・森浩一「考古学の模索」1978 学生社

 

↑なぜ、古墳がつくられたのか? その謎の糸口にたどり着いたのは、考古学者・森浩一氏のみである。その他は、節穴、生きるに値しない…