水田と前方後円墳―巨大前方後円墳はなぜ突然現れまた消えていったのか 2018/田久保 晃 (著)(株)農文協プロダクション

3世紀、奈良盆地に出現した前方後円墳は、権力者の墓とされているが謎に包まれている。
誰が誰のために築いたのか。なぜ、その場所に円形と方形から成る形で築かれたのか。
その立地が盆地縁辺部を反時計回りに移動し、さらに大阪平野をはじめ各地に広まっていったのはなぜか。
7世紀初頭に、なぜ消滅したのか。
そして、300年以上にわたり巨大な墳丘を築き続けた人びとのモチベーションは、どこから生まれたのか……。 前方後円墳をめぐるこうした幾多の謎は「前方後円墳は、墓であるとともに、その周濠が溜池として機能していた」と考えると一挙に解けていった。


農業土木専門の著者による意欲作である。
近頃見かけない3段組みの大著である。
農業土木の専門家だけに、田んぼの作り方とか、いかに田んぼに水を引いてくるかといったところに卓越した知識を披露している。

 

特に47ページに載っている、昭和20年ころの新潟平野の田植えの風景は衝撃的で、私も以前取り上げたことがある。
2023-05-01
土地の文明 地形とデータで日本の都市の謎を解く 2005/竹村 公太郎 (著) 地形とデータにもとづいて、大阪の五・十日渋滞など国内11都市の謎を解き明かし、日本人と日本文明の本質を炙り出す野心作。 忠臣蔵は、徳川幕府の吉良家への復讐劇であった。地図を見るとそれがわかる。
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/05/01/114644

 

新潟が米どころになったのは、大正時代からというのも驚いた。江戸時代は洪水ばかりで不毛の土地だったと。
信濃川には現在、2つの人口放水路がある。大河津分水路と関谷分水路である。

江戸時代末期からやっと調査の手が入ったが、費用のことなどあり頓挫、紆余曲折あって結局、完成したのは大正時代。
これが、大河津分水路。遺憾なく能力を発揮して、新潟が米どころとなったのは、やっと大正時代になってからだと。

昔の田植えの風景の衝撃。
1枚の田植えの写真、昭和40年に新潟県豊栄市で撮影されたという(元は、12分の白黒フィルム)。
「それはまさに、胸まで泥に浸かって田植えをしている映像であった。長い竹を横にしてそれを握りしめながら田植えをする。
その長い竹竿は、沼に沈まないための救命装置であった。
田植えだけではなく、冬場の客土も過酷な作業であった。
客土とは、小舟に載せた土砂を水の中に撒き、足で踏みつけて春までに泥田を1センチでも高くしようとす作業である。
その土砂は自分たちにて、大切な土であった。
お客様のように大切な土であったので、この作業は「客土」と呼ばれた。」
「この話を、大阪のある会議でパワーポイントで紹介した。この写真を見る人々から驚きのため息が聞こえてきた。
そこである一人の出席者から「私の母も胸まで浸かって田植えをしていた」という発言があった。
どこですか? との私の質問に「淀川のすぐ近くの右岸」と答えてくれた。
その50歳代のお母さんが沼に浸かって田植えをしていたというと、大阪の淀川でも昭和の戦後までは新潟と同じ状況であったのだ。」

胸まで泥水に浸かって……。
これは稲作、広まらないわなと思わせる光景である。
北九州に稲作が伝わってから、東日本に到達するまで、800年かかっているというのもこれが原因では?
はじめ植えたのは、陸稲おかぼであろうが、せっかく作っても味もよくない。
ならば、これまで通り、稗とかそばとか、麦なんか植えていた方がいいと考えたんではないか。


1500年前、1000年前、500年前、そして100年前では、田植えの原風景が違っている。
これは凄いことではないだろうか。

おびただしく造られた前方後円墳は農業灌漑施設ではないかという説、僅かだが識者の中にはそう言ってるひともいる。
全国で20万基も、わずか4世紀の間に造られたには何らかの強い理由が必要であろう。
今よりもはるかに人口も食料も少ない中での20万である。
だから、前方後円墳・農業灌漑施設説というのは有望だと思ってる。
少なくとも、そこで祭りごとを行っていたとい説よりはましである。

 

あらかじめ断ってはいるが、著者の判断の材料は畿内の満々と水が張った立派な周濠がある大古墳ばかりである。

前方後円墳 埋葬されない墓をもとめて 茂木雅博/著 京都 同朋舎出版 1992.8 
あの満々と水が張った立派な周濠がはじめからあのような状態であったわけではないと。
茂木氏の著作を読むとそのことがよくわかる。
中世、近在の農民たちが干拓池として整備したたものが多いようだ。

59ページから83ページにかけて、周濠のことを論じている。
からぼりか、みずほりか、はたまた、最初から周濠は存在したのか。
古墳については色々読んだが、本書の追及が最も詳しい。
というか茂木氏しかその肝心な問題に触れていない。
著者茂木氏は、古墳というものは、寿陵(空墓)ではないのかという重要な問いかけをしているから、勢い、周濠のことを論じざるを得ない。

およその数字、9割近くが古墳内に棺、石棺がない状態だという。
墓といえるものもある。無論である。だが、ない古墳もそれだけあるという。

 

あと、古墳が造られた場所というのを臼田氏の「古墳造営・民族間抗争説」に照らすと、俄然、意味を持ち始める。
古墳が造られた場所、それは畿内が多いと多くの人は勘違いしていると。
私もてっきりそう思ってた。
だが実際は、千葉、群馬、茨城、埼玉、長野(あんな山国に6千もあると)が多い。
この場所が意味するところは、言うまでもなく蝦夷征伐の最前線ということである。

 

2023-03-30
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 2010 臼田 篤伸 (著) 彩流社 巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの労働力とされた 。巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった。古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/03/30/002048

2023-05-27
高地性集落と倭国大乱―小野忠熈博士退官記念論集 1984/雄山閣 「高地性集落」を追いかけて…
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/05/27/163241


個人的には明治初期に撮影されたイギリス人技術者、ゴーランドが撮った古墳の写真が好きである。
今のように周囲を公園として整備されてない畿内の古墳群は、なぜかはげ山が多く、荒涼とした大地からぬっと突き出た巨大な突起物という趣である。


古墳はなぜ、造られたのか?
恐ろしいことに、現在それはわかっていないというのが正解である。


併せて読みたい
銅鐸民族の謎―争乱の弥生時代を読む  2004 臼田 篤伸  (著)  彩流社
銅鐸は「埋められていた」のではなく、「埋まっていた」のだ。「祭り」と「埋納」の呪縛による銅鐸論の迷走を撃つ書。民族紛争の視点を導入し、銅鐸民族の侵入とその後の天孫族の侵略による争乱の古代史を描く。 

銅鐸の秘密/臼田篤伸(著) 新人物往来社 2005

前方後円墳 埋葬されない墓をもとめて 茂木雅博/著 京都 同朋舎出版 1992.8 
天皇陵とは何か 茂木雅博/著 東京 同成社 1997.5 

古墳時代寿陵の研究 1994/茂木 雅博 (著) 雄山閣出版