高地性集落と倭国大乱―小野忠熈博士退官記念論集 1984/雄山閣 「高地性集落」を追いかけて…

高地性集落遺跡については、倭国大乱の時期とほぼ同じ時期(弥生後期の第二期)のものが顕著な形で近畿地方に残っており、これは神武の近畿侵入に対応する可能性がある。森浩一氏は、その争乱の深刻さは自身で遺跡を踏破した人しか理解できないほどで、


昔から、高地性集落のことばかり、考えている。
私の場合、日本の考古学に関しては、導き手は常に古田武彦氏と、森浩一氏である。
お会いしたこともないし、講演会に行ったこともないが、お二人の著作にはいつも凄いと驚嘆させられる。
めくるたびに新たなアイデアがヒントが浮かんでくる。
感謝のほかない。


ヤマトという地名も北部九州から移った

考古学者・森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)

伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです

 

また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、伊都国の平原古墓や井原鑓溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました

近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた
これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね
そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です

 

↑関西人なのに、この認識! ただただ、立派というほかない。


「高地性集落(こうちせいしゅうらく)は、日本の弥生時代中・後期に、平地と数十メートル以上の標高差がある、標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。」

 

「高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。
古墳時代前期には、西日本の広島・鳥取に、北陸の富山・石川・新潟に分布する。
しかし、北部九州にはみられない集落である。


集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。
遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。
また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。

佐原眞のかつての高地性集落分析で、後期へいくほど、東へ行くほど、石鏃の重厚感が増す傾向があり、それは殺傷能力の増大が瀬戸内東部から河内にかけて有事体制を強化したことを指し示している。
佐原氏のほかの考え方は別として、高地性集落に関する詳細分析だけはかなり信憑性が高い。

 

 高地性集落遺跡については、倭国大乱の時期とほぼ同じ時期(弥生後期の第二期)のものが顕著な形で近畿地方に残っており、これは神武の近畿侵入に対応する可能性がある。森浩一氏は、その争乱の深刻さは自身で遺跡を踏破した人しか理解できないほどで、>集落の分布状況から、弥生中期~後期にかけて、北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で軍事衝突を伴う>政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。
豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。>これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。


越後裏山遺跡と倭国動乱 新潟日報事業社2001


高地性集落のすぐ近くに前期古墳が築かれる場合が多い !!!!

P22 高地性集落のある地域と、横穴式石室導入以前の前半期古墳が作られた地域は、ほとんど重なります。

 

確信した。
前方後円墳は墓ではない(墓も初期には一部あるが)、前方後円墳は、原住民系の力を削ぐためにその目的でつくられたのではないか。

 

「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士


「あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳ができるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が突如として築かれる場合がある。いまのところこの謎はちょっと解けない。」

考古学者・森浩一「考古学の模索」1978 学生社


銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 2010 臼田篤伸 (著) 彩流社
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。
天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの労働力とされた 。巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった。
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。

 

それまで、日本の有名大学の古代史専門家による縄文→弥生→古墳時代への“平和的、友好的、自然的”発展変化という‘上品で理想的’な皇室尊重的な伝統史学を徹底的に破壊、否定、駁論する内容である。
まぁハッキリ言ってよく言ったと思う。自分も伝応神・仁徳天皇陵を何度か訪れたが、アレをブルドーザーやトラックもない古代に、粗末な鍬や鋤だけで作れと言うのだから、命令する人はどれ程の「仁」と「徳」が備わっているか推して知るべしである。
しかも、前方後円墳だけで大中小合わせれば日本全国に5000基(円墳含めると20万)あるといわれるので、古代の大和朝廷なるものがどれ程「博愛的」であったかは、著者ならずとも推して知るべきである。


あんなものを‘嬉々として’積み上げるバカが何処にいると言うのか?
最近流行の人道主義歴史学者は、一度、自分でその石を背中に積んで頂上まで登ってみろと言いたい。

 

歴史学者、考古学者は、いい加減、無意味な「土器の編年」とかやめて、優秀な民俗学者の意見を聞くべき!!
故・谷川健一氏と、故・鳥越憲三郎氏が凄すぎる。

先にいたニギハヤヒも「九州人」の物部族だったから、そのあたり古事記でも歯切れが悪い。
やがて、侵入してきた神武天皇の勢力と協調して生きていこうと決めた勢力(内物部)と、そうでない勢力(外物部)に分かれた。
たとえば、伊福部氏の祖先は、はじめ銅鐸を作っていたが、鏡づくりに方針転換して生きることになった。
それでたくさん作られて配られたのが三角縁神獣鏡だと思う。
吉野ヶ里遺跡から、小銅鐸の現物、その鋳型まで発見されて考古学会を驚かせたが、それを近畿に持ち込んで、巨大化させたのも九州から畿内へ入った物部氏であろう。

 

兵庫県の高地性集落
神戸市伯母野山遺跡(標高130メートル)、同県芦屋市会下山遺跡(えげのやまいせき、標高185メートル)、同城山遺跡(標高250メートル)

 

↑「尼崎だったか、田能遺跡も九州系の遺跡」 いずれも直線距離で、8キロから10キロ。九州地域から、かくじつに人は来てる。

田能遺跡も九州系の遺跡と考えてもいいと思う。甕棺、銅剣の鋳型、木棺墓など。
弥生時代のほかの近畿地方の遺跡からするとやはり異質。

 

田能遺跡の木棺墓に埋葬されていた男性のうち2体には、 623個以上の碧玉製管玉を装着した遺体と、左腕に白銅製釧(くしろ:腕)した遺体も発見された。上半身には朱が施されており、この2基だけが明らかに特別扱いされている。
ムラの首長クラスだった事をうかがわせる。
これらの埋葬方法は、北九州の埋葬方法に似たものがある。

特に壺棺・甕棺などは当時北九州で盛んに用いられた埋葬方式であって、九州の弥生人と同じ種族が尼崎にも居た、あるいは九州から近畿地方へ移ってきたという想像を駆り立てる。

田能の人々は、河川と湿地帯との間のやや高い大地に集落を作り、幅約4m、深さ2mの環壕を巡らせていたと思われる。
水田で、種籾を直播きする方法で米を作り、収穫には石包丁を使用した。
遺跡からは多量の炭化した米や、土器が出土している。
また狩猟や漁労も活発で、石鏃、石槍、石錘や軽石、イイダコ壺などの道具類や、シカ、イノシシの骨、エイの歯、ハマグリやシジミなどの貝殻も多い。
出土した銅剣の鋳型は、近畿地方では初出であり、この鋳型から復元される銅剣は、長さ40cmを越える大型剣である。
これらの状況も北九州とよく似た環境である思いを抱かせる。


香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡 http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/0d4526b0139cfe8d47b520326d6862b9

紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡

 

↑いずれも直線距離で、8キロから10キロ ゲリラ戦を展開するにはいい距離じゃないか?

本年度の調査で、長方形で2本柱という九州地方で一般的な構造とよく似た竪穴住居跡を新たに発掘した。
九州地方の特徴を持つ壺も出土しており、九州地方から移り住んだ人が同遺跡に住居を建て、生活していたことを示しているという。


香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡 2008年11月08日 | Weblog
県が発掘調査を進める旧練兵場遺跡(仙遊町、善通寺病院敷地内)で、8日午後1時半から現地説明会が開かれる。
新たに見つかった弥生時代後期の竪穴住居跡の構造から、九州地方からの移住者の存在を県内で初めて確認した。
同遺跡は、弥生時代中期から古墳時代にかけての竪穴住居跡が多数発見されている県内最大規模の集落遺跡。
同センターによると、同遺跡ではこれまで、7本程度の柱で支える円形の竪穴住居跡が見つかっていた。
本年度の調査で、長方形で2本柱という九州地方で一般的な構造とよく似た竪穴住居跡を新たに発掘した。
九州地方の特徴を持つ壺も出土しており、九州地方から移り住んだ人が同遺跡に住居を建て、生活していたことを示しているという。[参考:11/8四国新聞]

 

こういう風にじわじわと畿内を侵略したのだろうねwww
神武もおれは、九州勢力のバガボンド(放浪者・はぐれ者)だと思ってる。
これこそ、「神武」のひとりだったかもしれない…

 

紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡である。

本遺跡は、燧灘(ひうちなだ)に突出する岬上の先端にそびえる標高352メートルの紫雲出山山頂にあり、絶好の視野と眺望とに恵まれている。

本遺跡は、弥生時代中期の初めごろから始まって、出土遺物の量から判断して、中期も終わりに近づくにつれて集落の規模が拡大し、人口も増加したらしいが、中期をもって終わっている。政治・社会の変革は、もはや不便な山頂に居住することを必要としなくなったのであろう本遺跡から出土の石の矢尻や剣先が豊富な事実と矢尻の重さから、弥生時代に戦いがあったと佐原は考えた。

 

香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡 九州地方からの移住者の存在を県内で初めて確認した。
  同遺跡は、弥生時代中期から古墳時代にかけての竪穴住居跡が多数発見されている県内最大規模の集落遺跡。

紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡

 

↑直線距離で8キロくらいだから、いい感じじゃね? 時代もぴったり合う

香川県善通寺市・旧練兵場遺跡に九州勢力が橋頭堡を築き、紫雲出山遺跡に籠もった原住系・銅鐸民との血みどろの戦いが行われていた証拠だよ


とにもかくにも、畿内説はすでに破綻しているのではないか。
三角縁神獣鏡が現在まで600枚以上も出土している。
小林行雄が分配説で畿内説を補強して一世を風靡したが卑弥呼が100枚しかもらってないのに(笑)、すでに600枚(700枚を超える説もある。正式な手続きを踏まず古物商などに流れたものを含めれば優に1000枚は超えていよう)とはおかしいではないか。
三角縁神獣鏡はまちがいなく国産だよ。
世の大学の歴史学者たちはそれでも頑なに畿内説支持というのだから恐ろしい。
税金の無駄遣いではないのか。

 

銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で邪馬台国畿内説はダメ。
巨大古墳は、先住民(銅鐸民)の反抗を封じるために作られた無益なモニュメント。
結果ではなく過程(強制労働)に意味があった。
土器の編年とか、ほんとにくだらない。
支配者(勝った側の)の心を知ること。


併せて読みたい

高地性集落論―その研究の歩み (1984年) 1984/2/1小野 忠熈 (著)学生社

高地性集落跡の研究 資料編―資料篇 小野忠熈 1979/3/1学生社

 

会下山遺跡 芦屋市【弥生後期・山頂式高地性集落址の研究】 初版 村川行弘=石野博信 芦屋市教育委員会 S39年発行

 

弥生社会の群像-高地性集落の実態 <古代学協会四国支部大会研究発表要旨集>
第18回古代学協会四国支部大会徳島大会事務局編 古代学協会四国支部

 

田能 --弥生文化の謎にいどむ--村川行弘 学生社 1969年

女王卑弥呼の国 (中公叢書)  2002/鳥越 憲三郎 (著)

 

倭国乱」と高地性集落論・観音寺山遺跡 シリーズ「遺跡を学ぶ」 若林 邦彦/著 新泉社 2013.10

越後裏山遺跡と倭国動乱 新潟日報事業社2001

季刊考古学157号 高地性集落論の新しい動き 雑誌 – 2021/10/27森岡 秀人 (編集)

 

↑小野先生以来、高地性集落についてはロクな単行本がない状況だ。
 おととし、やっと雑誌ではあるが、新刊がでた。期待したが、大いにつまらない。ここだけの話、編者が悪いのではないか。