銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 2010 臼田 篤伸 (著) 彩流社 巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの労働力とされた 。巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった。古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。

「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』過程そのものにあるのである」
           『ピラミッドの謎』1975 クルト・メンデルスゾーン 

 

物理学者、メンデルスゾーンの知見(ピラミッド公共事業説)は我が国でおびただしく造られた古墳にもそのまま当てはまる。
消失した(宅地化、農地化)されたものを含めれば20万基以上の古墳がこの狭い日本列島に造られたものと思われる。

まずこれを異常と思わずしては先には進まない。
畿内に存在する大古墳は言わずもがな、各地に散在する古墳を見ても、いったんそれを再現するとなれば、1基作るだけで相当の労力が要るだろう。
土木機械も何もないまま手作業で!
気の遠くなる思いである。

 

それではその原動力とはいったい何だったのか。

ズバリ、民族間抗争であるというのが著者・臼田 篤伸氏の見解である。
考古学者、歴史学者は、祭りごとのために築かれたと言ってるが、たった400年(古墳時代)に、20万基もだよ、冗談は顔だけにしてくれと言いたくなるではないか。
今に比べれば、はるかに食料も乏しい、人口も少ない中での20万基だよ。
これを驚異と言わずして何といおう。


さんざん言われてるが、あれだけ畿内一帯から出てくる銅鐸が、全く魏志倭人伝邪馬台国倭国の国々に関しての記述に出て来ない。
それどころか古事記日本書紀にさえ出て来ない。
支配者が変わったとみなすのが正しいと思う。

 

古墳は果たして墓なのか。墓といえるのか。
一見、自明のように思える設問だが、そうではなさそうである。

 

前方後円墳 埋葬されない墓をもとめて 茂木雅博著 京都 同朋舎出版 1992.8 

臼田氏が、思考の突破口となったという、考古学者である。
およその数字、9割近くが古墳内に棺、石棺がない状態だという。
墓といえるものもある。無論である。
だが、ない古墳もそれだけあるという。

 

あと、古墳が造られた場所というのを臼田氏の「古墳造営・民族間抗争説」に照らすと、俄然、意味を持ち始める。古墳が造られた場所、それは畿内が多いと多くの人は勘違いしていると。
私もてっきりそう思ってた。
だが実際は、千葉、群馬、茨城、埼玉、長野(あんな山国に6千もあると)が多い。
この場所が意味するところは、言うまでもなく蝦夷征伐の最前線ということである。

 

畿内の巨大古墳を見る際、周りに張り巡らされた周濠にも要注意だ。

あの満々と水が張った立派な周濠がはじめからあのような状態であったわけではないと。茂木氏の著作を読むとそのことがよくわかる。
中世、近在の農民たちが干拓池として整備したものが多いようだ。
さいしょに、堀がほられた…。
労働者はそこに住まわされた。
それ以降、水が入って濠になった。

 

人間狩りが得意な(生口で検索)九州勢力(のちの大和朝廷)が先住民(銅鐸族?)を使役してつくったのがあの壮大な古墳群である。


とはいえ、九州勢力=邪馬台国ではない。

だから銅鐸発掘地と巨大古墳は微妙に近い場所にある。

彼らは濠の中に住まわされていた。だから、古墳の外周の濠を掘り返すと、かわらけ、生活雑器がでてくる。たしか、箸墓からも出てきたはずだ。
考古学者たちの多くは、なぜ、古墳の外周の濠から生活雑器がという疑問に及ばない。

 

「あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳ができるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が突如として築かれる場合がある。いまのところこの謎はちょっと解けない。」

考古学者・森浩一「考古学の模索」1978 学生社

 

敢えて言うなら、纏向遺跡は、周辺の大古墳群造営のための「古墳造営キャンプ」であるという酒井龍一氏の見解に大賛成だ。
酒井龍一「古墳造営労働力の出現と煮沸用甕」1977

 

銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で邪馬台国近畿説はダメ。

巨大古墳は、先住民(銅鐸民)の反抗を封じるために作られた無益なモニュメント。
結果ではなく過程(強制労働)に意味があった。
土器の編年とか、ほんとにくだらない。
支配者(勝った側の)の心を知ること。

 

高地性集落遺跡については、倭国大乱の時期とほぼ同じ時期(弥生後期の第二期)のものが顕著な形で近畿地方に残っており、これは神武の近畿侵入に対応する可能性がある。森浩一氏は、その争乱の深刻さは自身で遺跡を踏破した人しか理解できないほどで、>集落の分布状況から、弥生中期~後期にかけて、北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で軍事衝突を伴う>政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。
豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。>これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。

 

人間狩り、生口の限定収容所が女山(ぞやま)神籠石であると臼田氏は言う。

九州でさんざん「予行演習」をやったうえで彼らは畿内に入ってきた。
だから、手口が鮮やかすぎてこれまでばれなかったと思われる。

 

福岡県みやま市瀬高町女山神籠石ぞやまこうごいし。

 *福岡県山門郡瀬高町大草の女山集落の筑紫山地支脈の東部山麓
 *標高203mの古塚山を中心に山の稜線添りょうせんぞいに、ちょうど首飾りを掛けたように、東が高く西側が低くなっている。
 山麓最北端の横尾谷より北半分についてはまだ発掘されておらず不明である。.

 

「古代の地方史.西海編」の中で井上辰雄氏は「その狗奴国との交戦に備え、狗奴国に接する南をかためるために卑弥呼が城柵を築いたのではないでしょうか。異常に多い七万戸という人々も単なる農村の人口だけでなく、諸国から徴発され、この地に配され防備に当たった兵士や「婢千人」に象徴されるような、卑弥呼の周辺にあって彼女に奉仕する数多くの官人や官僚、守護兵を含むものだったと思う。

黛弘道氏は筑後、佐賀の両平野に福岡県朝倉郡の杷木神籠石を頂点とする5つの神籠石が取り囲んでいる点に注目している。
この神籠石が築かれた年代が果たして三世紀のさかのぼるかは疑問としても、女山の産女谷の神籠石の列石から中広の銅矛2本が発見されたことは、女山弥生時代の遺跡であったことを認めなければなるまい。仮に神籠石の築造が6世紀以後のものとされても、それらの城柵は卑弥呼の時代の遺構を拡大し継承したことも考えられるからである。」と語っているが決定的な築造年代に及んでいない。

 

言うまでもないことだが、発掘する際の、見る際の心構えというか、問題意識が重要になる。つまり、女山(ぞやま)が人間狩り、生口の限定収容所かもしれないと思ってみるのと、そんなことは考えも及ばぬ考古学者たちでは雲泥の差が出てしまう。

女山神籠石の案内板に記されているような山城説とか霊域説といった生ぬるい類ではなく、暗黒の古墳時代の恐るべき収容所の原点であったこと、よって記録には残せない施設であったことに他ならない。」

 

物理学者、メンデルスゾーンの「ピラミッド公共事業説」が、考古学会に与えた影響は大きすぎる。世界中のピラミッド専門の考古学者たちから今もなお言及され続けている。ならば、歯科医である臼田氏の「古墳造営・民族間抗争説」も同様に称揚されてよいと思う。


以前、「土偶を読む」(竹倉史人)を取り上げて、「この「土偶を読む」自体が、散々手紙の行方を探し回ったがどこにもなく、結局部屋の壁にかかった手紙刺しにあったという、まるであのエドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」みたいではないか!と書いたのだが、土偶よりも何よりも不可思議な「古墳の謎」を臼田理論が全面的に解き明かしていると思う。

 

併せて読みたい

銅鐸民族の謎―争乱の弥生時代を読む  2004 臼田 篤伸  (著)  彩流社
銅鐸は「埋められていた」のではなく、「埋まっていた」のだ。「祭り」と「埋納」の呪縛による銅鐸論の迷走を撃つ書。民族紛争の視点を導入し、銅鐸民族の侵入とその後の天孫族の侵略による争乱の古代史を描く。 

銅鐸の秘密/臼田篤伸(著) 新人物往来社 2005

 

前方後円墳 埋葬されない墓をもとめて 茂木雅博/著 京都 同朋舎出版 1992.8 

天皇陵とは何か 茂木雅博/著 東京 同成社 1997.5