【韓国】立憲の小西ひろゆき氏が証拠が無くても関東大震災詐欺を認め謝罪と賠償を要求【カッパえんちょー】
https://www.youtube.com/watch?v=jxctG7M0n4k
あと、立憲の杉尾とかが言い始めているらしい。
お見舞金や謝罪はとっくの昔に、当時の時点で終わってる。
お見舞い金や謝罪の2度取りは許されない。
ちょうせんじんの死者832人という数字は朝鮮総督府官房外事課所収の『関東地方震災時に於ける朝鮮人問題』に掲載されています。
震災があった事は数日で朝鮮半島に伝えられ、身内の安否確認が殺到したようです。
そこで、当時の日本政府は朝鮮人の死者・行方不明者を漏れがないように割り出し、その遺族全員に弔慰金を支給している。
漏れがあると後から何を言われるか分かったものではないのですから、
それこそ詳細を調査したようです。
日本人にはこの弔慰金が16円でした。なぜ、この時、朝鮮人には200円という当時としては大金が支払われたのかというと、
この時、既に日本人による大虐殺というデマが流布していたからです。そういった騒動を収めるために、大金を支払ってしまったの。
私たち朝鮮人は、この時からゆすりの名人だったのです。
尚、民団によると関東大震災の前年、日本に在住していた朝鮮人は5万9722人でしたが、震災が起きた大正12年末には8万415人にまで
増えている。虐殺されたハズなのに、朝鮮人が2万人以上も日本に押し寄せるってどう思いますか?
関東大震災 : なぜ、金田は朝鮮人が放火したと考えているか
http://blog.livedoor.jp/kanedashoji70/search?q=%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
在日朝鮮人から見た韓国の新聞
韓国の新聞を新米帰化人の目から見て、韓国で報道されている内容の中から気になることやウラ読みについて書き綴っていきたいと思います。
今から40年以上前、父に連れられていわゆる顔役の人のところに挨拶に行った事があります。70代後半のその人を含めていわゆる
私たちの中では顔の通った人たちでした。
以前、少し書きましたが金田の家系は族譜の長でもあり、金田はそこの嫡男ですから、まぁ、今でいう期待の星だったワケです。
父は日本に同化する事を選び金田にもそれを望んだのでしょうが、自分の出自に対する誇りと若さ故の反抗が相まって、
当時としては珍しく金田は南朝鮮への留学を選び、そして兵役にも就こうというバリバリの左派へと突き進んだのです。
父はそんな私を諌めようとはせず、南朝鮮に行くのであれば少しでも金田の留学における問題が少なくなるようにと、
前述した人たちのところに挨拶しに行ったのです。
金田と同世代の同胞なら分かると思いますが、そういった挨拶に行くと酒宴になります。まだ未成年だという言い訳なんか
当時は通じるはずもなく、元々酒にも強い家系ということもあり、金田もコップを持たされ酒を注がれます。もちろん、
酒なんかは普段から飲んでいませんからウマさなんか分からないのでチビチビやるワケです。
そうこうしているうちに彼らはどんどんできあがっていくんですね。そうなると、過去の武勇伝が飛び交う事になります。
やれ土地を搾取しただの、強盗に入ってどうのとか、まぁ、皆さんがよく知っている話しが出てくるのです。もちろん、
そんな事を言うのは顔役の取り巻き連中で少し若い奴らではあるのですが、酒宴が進んでいくうちに、そういった空気に触発されて
段々と上の世代も言い始めてくるのです。そんな状況の中で関東大震災の話しが出てきたのです。
金田の当時の日記にはこう書いていました。
東京における震災直後、僑胞が家々に火を放つ話しが◯◯の口から飛び出し驚く。他にも強奪や強盗、強姦の話があり
悍ましき憎悪の血が流れている事を思い知らされる。
彼らは武勇伝の如く話すが、この放火で10万人以上の日本人が死ぬ事になったのかと思うと我等の理念は本当に正当なるものか
疑念を抱く。
昔の日記を読んでいると、少し青いなぁって思いますが、当時の状況は昨日のように思い起こす事ができます。
それだけ金田にとってはショッキングな件だったのですね。
今もそうだと思いますが、当時も関東大震災で私たちの祖先は日本人に殺されたと聞かされました。念のため、
金田家ではそんな話しは出てこなく、集会などで聞かされる事がほとんどで、素直な(!)金田はそれを真実だと信じていたのです。
ところがその地区の実力者たちから出てきた言葉は、それらの話しを真っ向から否定する、残虐性の強い私たちを知らしめるもの
だったのですね。酔っ払っているから声も大きくなるでしょうし、内容も誇大になっていたかも知れません。
ですが、放火は確実にあった。当時の金田は彼らの自慢話を聞いて確信に至ったのです。
この話しを裏付ける史料は今の所金田は見つける事ができません。ですが、当時の気象状況や出火状況から考えると
強風が吹き荒れる前に燃え広がった理由は見当たりませんし、出火のあった場所と当時、私たちの祖先が多く住んでいた場所の
奇妙な合致もまた、金田が若い日に聞いた話しに信ぴょう性を付与してしまいます。
関東大震災の火災は放火だった。
全てが放火だとは断言しませんが、以上の理由から金田はこれが真実だと信じて疑わないのです。
関東大震災の特徴は火災での死者が突出してること
10万人が被害を受けたと言われ発生時刻がお昼時もあり当初台所が火元じゃないかと思われていた
しかし火災の規模と時間にバラつきがあり今では在日朝鮮人による放火が原因じゃないかと言われている
一説によると在日朝鮮人による放火が無ければ火災による被害は1/10から1/100だったと思われる
【関東大震災の家屋被害】 揺れによる直接被害は震源地に近い神奈川県が最も大きかった。(数値は棟)
全壊 半壊 埋没・流出
神奈川 6万3577 5万4035 497
東京 2万4469 2万9525 2
千葉 1万3767 6093 71
埼玉 4759 4086 0
ところが焼失被害は東京だけ突出して大きい。
被害全種類 うち焼失 焼失被害の割合
神奈川 12万5577 3万5412 28.2%
東京 20万5580 17万6505 85.9% ← ←!!!!!!!
千葉 1万9976 431 2.2%
埼玉 8845 0 0.0%
上の「焼失」のうち、全半壊を免れたがその後焼失したと推定される数は以下の通り。
神奈川 7468
東京 15万1584 ← 火災による被害の割合が他県と比べて非常に大きい 大きすぎる
千葉 45
埼玉 0
東京は火災による被害の割合が他県と比べて非常に大きい 単なる延焼によってここまで被害が拡大したのか??
倒壊建物の多い神奈川、少ない千葉と比較してどちらとも大きく離れた数値になっている
原因を単なる延焼に帰するのは不自然
地震後時間が経ってからの出火、火元の多さということが確認されるなら、放火を疑うのが自然だろう。
「朝鮮人、各所暴動検束数千名」(小樽新聞 大正12年9月3日号外第三)
「朝鮮人、横浜~王子放火」(大阪朝日新聞 大正12年9月3日号外)
「朝鮮人、爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」(荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報)
「朝鮮人、屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」(新愛知 大正12年9月4日号外)
「朝鮮人浦和高崎に放火検挙 爆弾所持し唯氷峠列車爆破自白」(名古屋新聞 大正12年9月4日号外第二)
「朝鮮人、殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」(福岡日日新聞 大正12年9月4日号外)
「朝鮮人、爆弾・掠奪・鮮人・銃殺」(小樽新聞 大正12年9月4日号外第一)
「朝鮮人捕縛 爆弾其の他押収。軍隊が治安維持に出動したため、不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、鎮圧鎮静化へ」
(九州日報 大正12年9月4日号外第三)
「朝鮮人暴挙は完全取締を遂行」(大阪毎日新聞 大正12年9月4日号外第二)
↑どうやらこれらの地方新聞に載った関東大震災ものは、見てきたようなウソばかりらしい。ウソばかりの情報の中でこれはと思わせるものもある。
横浜における目撃者の談話からその一端を見ておきたい。
「一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は
何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが
大崩壊に続くもうかには遺憾ともすることが出来ず、
二日迄絶食のままで諸所を彷徨した(略)交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。
況んや不逞の鮮人約二千は腕を生んで市中を横行し、略奪を擅にするは元より、
婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふている。
これに対する官憲の警備は東京市と異なり、軍隊の出動もないので行き届かざること甚だしく、ついには監獄囚人全部を解放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当たらしめたので大戦闘となり、 鮮人百余人を斃したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。
以上の如き有様なので食料飲料水の欠乏は極に達し、
然も救援の何ものもないので生き残った市民の全部は天を仰いで餓死を待つばかりである」
(大日本石鹸社専務:細田勝一郎談「河北新報」大正十二年九月五日)
「事務長は「陸上は危険ですから御上陸なさることは出来ない」といふ。
何故危険かと問へば「鮮人の暴動です。
昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやって居る。
古都に裁判所付近は最も危険で鮮人は小路に隠れてピストルを以て通行人を狙撃して居るとのことである。
若し御疑あるならば現場を実見した巡査を御紹介しましやう。」といふ。」
(「横浜地方裁判所震災略記」バリー丸船内、部長判事長岡熊雄)
戒厳令発令
こういった状況の中、日本国民を守るために、政府は漸く戒厳令を敷いた。
戒厳令下で、不穏な動きをするものを厳しく捕らえるのは、よもや当たり前のことである。
後藤新平は、不逞鮮人襲撃のニュースを敢えて掲載することを止めて
彼等の暴動が後の昭和天皇に向けられることからお護りした
台湾総督府で民生長官を務めた後藤新平が内務大臣になり、
当時まだご結婚されていなかった摂政宮(後の昭和天皇)の御身を案じ、
終わることなく起きる朝鮮人暴動を沈静化させる意味で、
一斉に朝鮮人の襲撃に関する情報が新聞などが書かれることをストップさせた。
朝鮮人による暴動があったと新聞が書くことで、日本人の自警団が朝鮮人に対する報復が苛烈を極める。
それにより、更に朝鮮人(または其の背後にいる、社会主義者たち)の暴動が摂政宮に向かうことを恐れたのだ。
実際、それ以後、新聞からは「朝鮮人襲来」の類いの記事は抑えられ、
逆に日本人に向けても、「朝鮮人いい人」キャンペーンが始まったという。
現実にあった朝鮮人襲撃のニュースを報道せず、事態を沈静化させたという手法そのものは、その当時としては仕方が無かったかもしれないが、それにより、
朝鮮人が暴動を起こしたという確固たる事実が消えてしまったのだ。
http://ccce.web.fc2.com/sinnsai.html
ホントの被害者数については、司法省と内務省がそれぞれ調査をしている。
■日本の司法省の調査書
朝鮮人の死者233名、 重傷15名、 軽傷27名
朝鮮人と間違えられて殺された日本人死者58名、 重傷13名、 軽傷18名
朝鮮人と間違えられて殺された中国人死者3名、重傷5名
■日本の内務省警保局の調査
朝鮮人の死者231名、朝鮮人と間違えられて殺された日本人死者59名
2つの別々の機関による調査だが、朝鮮人死者の誤差は2名、日本人死者の誤差は1名。正確な調査と言って良い。
殺された本当の理由は、火事場泥棒を働いたから。だが朝鮮人としては、その本当の理由は死んでも
言えない。そこで流言飛語で殺されたと主張している。
231名の殺人については全て立件起訴されている。
■また朝鮮総督府が調査した結果、朝鮮人の関東大震災全体の死者(虐殺も含む)&行方不明者は 832名でした。つまり(虐殺で死んだ人200人)+(地震で死んだ人&行方不明者600人)という事です。
朝鮮人の遺族には1人200円の見舞金を贈り、地方官が遺族を慰問しました。
見舞金総額は16万6千円です。
■金承学の調査 (※金承学=当時、上海にあった独立運動機関誌「独立新聞」の社長)
朝鮮人の死者6415人。 大嘘つきの朝鮮人
反日バカ左翼や犬HK,朝鮮人どもは、関東大震災のとき、約6千人の朝鮮人が殺されたというが、大嘘!!!!
毎年毎年、日本人犠牲者を愚弄してるんだよ、このクズどもは!!
『写真 明治大正60年史』(1956年、毎日新聞社)では数百人。
『朝鮮人虐殺関連官庁資料』によれば、朝鮮人被害者死亡231人、重軽傷43人。
『関東戒厳司令部詳報』の兵器使用調査票によれば、
震災後一週間の「治安維持のため」の朝鮮人殺害254人、日本人殺害27人。
大震災による大混乱の最中、それまで散々悪事を働いていた不逞鮮人どもが
デマも加わった民間の自警団による過剰防衛によって殺害される事件が起きると、
不逞鮮人以外の朝鮮人まで殺害される事件が起きた。
そのような混乱が発生したとき、日本の警察や軍隊は命がけで朝鮮人を守った。
―――――
本当に気の毒なのは
朝鮮人と間違えられて殺された日本人死者58名 ←←!!!かわいそう 御気の毒としかいいようがない
重傷13名
軽傷18名
見舞金総額は16万6千円です。
↑日韓基本条約同様、すべて決着してること 小西よ、杉尾よ、蒸し返すなや!!お見舞い金や謝罪の2度取りは許されない。
井戸に毒を入れたなどの流言飛語により殺された人々もいたでしょうが、大半は、震災後の混乱の中で火事場泥棒などの犯罪を働こうとして自警団に殺されたというのが真相のようです。
流言飛語により殺されたのは、無知文盲、粗暴で犯罪が多い、公共の空き地や河川敷などに住みついて朝鮮人部落を作る、低賃金で日本の仕事を奪うなどで、日本人から非常に嫌われていたことが原因でしょう。
虐殺に加担するどころか自警団から朝鮮人を守ってた日本政府官憲
実際に、日本政府(警察や軍隊)が、自警団から朝鮮人を保護した事例
●神奈川県鶴見警察署の大川常吉署長は、警察に駆け込んだ朝鮮人(約三百人)を
命がけで庇護した。警察署を包囲する千人の暴徒に対し「井戸水を持って来い」と言い、
その場で飲んで、朝鮮人の潔白を示し、朝鮮人を救った。
●また、真田さんという人は、朝鮮人一家をかくまい、自警団が押しかけ、
詰め寄っても、かくまい続け、数日後、真田さん宅から約2キロ離れた寺島警察署
(現向島署)まで従業員の警護をつけて送り届け、化九さん一家は難を逃れた。
そのほか、平成9年12月12日付け産経新聞夕刊に、軍が朝鮮人を救ったという資料を載せている。
------------------------------------------
関東大震災直後 戒厳軍が朝鮮人救済 デマに踊る自警団制す 横須賀で2資料発掘
1997/12/12 、産経新聞(夕刊)
大正十二(1923)年九月一日の関東大震災が発生した直後、神奈川県横須賀市で、
旧日本軍がデマによる朝鮮人殺害を懸念し、二百人以上の朝鮮人を保護するとともに、
延べ千百余人の被災朝鮮人の治療を行い、希望者を朝鮮半島に送っていたことが、
十二日までに中村粲・獨協大教授の研究で明らかになった。教科書では、関東大震災が
発生した際、東京都内や横浜で朝鮮人が多数虐殺された事件に関連し、「旧日本軍も
関与した」とする説明が記されているが、資料では、保護された朝鮮人側が謝意を表し、
震災復興費用を寄付したケースもあるとしている。
◆噂ハ虚報。虐待スルナ
中村教授によると、旧日本軍による朝鮮人保護を記しているのは、横須賀市
震災誌刊行会が昭和七年に発行した「横須賀市震災復興誌」と、横須賀市在住の
元大蔵省職員、毛塚五郎氏のまとめた「関東大震災と三浦半島」の二資料。
この二つの資料によると、震災直後、「朝鮮人による暴行があった」などとする
デマが流れているという情報を入手した軍当局が、「概ネ虚報ナリ」として、
朝鮮人による暴行や井戸への毒の投げ込みなどのうわさは「デマ」であると判断。
市内の重砲兵連隊「不入斗(いりやまず)練兵場」に朝鮮人を保護し、市内各所に
「デマに惑わされないように」とする掲示を出してデマの鎮静化を図った。(以下略)
↓こんなやばいミンジョクだから、テロを警戒して神経質になったんですよ 関東大震災のころ
「不発に終わった皇居爆破事件」-朝鮮人テロリスト群像- 安宇植著より抜粋 関東大震災のころの朝鮮人
1919年(大正8)9月2日、朝鮮総督斎藤実にたいする「テロリスト姜宇奎(六六歳)」の暗殺未遂事件
1920年4月28日、日本の皇族梨本宮守正王長女方子と婚姻関係を結んだ朝鮮皇太子李垠にたいする「徐相漢(二〇歳)」の暗殺未遂事件
1920年9月14日、「朴載赫」による釜山警察署爆破事件
1920年9月、日本人極左過激分子Z(Zealontism)団に加盟した朝鮮人団員らによる反日テロ
1920年12月、「崔寿鳳」による慶尚北道密陽警察署爆破事件
1921年2月15日、朝鮮自治の実現を帝国議会および政府に要求するために渡日し、東京ステーション・ホテルに滞在中の親日派の巨頭閔元植にたいする、梁槿煥(二八歳)の刺殺事件
1921年9月12日、金益相(本名は金鳳男、二八歳)による朝鮮総督府庁舎爆破事件
1922年3月29日、陸軍大将田中義一にたいする「金益相、呉某(二〇歳)」らの、上海における暗殺未遂事件
↑こんなやばいミンジョクが、その子孫が今現在200万匹もいるんだよ、みなさん、どうする??
歴史読本・昭和五十三年六月号 特集 日本暗殺秘史 より
これが治安維持法制定の切実な理由↓ @@日本共産党はじめ、バカ左翼は言論弾圧と非難するが…
★関東大震災朝鮮人暴動はデマではなく実話!朝鮮人テロリストの襲撃★
デマではありません。上海に拠点を持っていた朝鮮人の独立派が日本に送り込んだ
皇太子(昭和天皇)暗殺部隊が、予定外の大震災に遭遇し、無計画な暴挙に出たのです。
http://www.youtube.com/watch?v=r0bZoEfXl2I
震災直後の9月3日に無政府主義者の朴烈(ぱくれつ)と愛人の金子文子が東京淀橋警察署に連行され、朴烈は尋問にこう答えている。
「俺は日本の天皇、皇太子を爆弾投擲(とうてき)の最重要なる対象にしていた。
それで、爆弾が手に入ったらいつでも機会を見て使用するつもりだった。
できるだけ日本の皇太子の結婚式に間に合うよう計画を進めてきた」
つまり9月2日(二百十日)、11月の御成婚式を狙って社会主義者、無政府主義者が革命テロを起こそうとして、そのとき関東大震災が発生し、 好機とばかりに蜂起したのです。しかし、この事実は内務相の後藤新平らが、彼らを力で抑えるのは更なる事態悪化を招くと判断され、流言、デマにして必死に抑えられたのでした。
治安維持法制定したのは加藤高明内閣
関東大震災のあった年の12月27日に虎の門事件があり、山本権兵衛内閣が引責辞任した後の政権だ
関東大震災の朝鮮人テロは本当の話ですよ
あの後、一斉に日本側の支援者と朝鮮人を逮捕したら、虎の門事件が発生した
取調をすすめたら共産党経由で資金や武器が来ていることがわかったので、治安維持法作って 共産党に適用したのですわ。 これホント 調べてみ
↑小池や、コクタや、シイや、吉良はテレビに出てくるときモザイクかけなきゃダメな連中
震災当時の東京近辺に朝鮮人爆弾テログループがいたことは明らかになっている。
【韓国/歴史】朝鮮独立運動の秘密結社「義烈団」・大韓民国上海臨時政府の活動実態、英SIS秘密文書で判明(画像あり)[03/01]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1362131673/
>1919年の三・一運動直後、金元鳳(キム・ウォンボン)を中心に武装独立運動団体「義烈団」が結成された。
>武力による独立を目標とした義烈団は21年9月、朝鮮総督府に爆弾を投げ、名前が知られるようになったが、
>秘密結社だったため、活動状況の詳細はこれまで明らかになっていなかった。
>義烈団の規模と活動状況を記録した英国秘密情報部(SIS)の秘密文書が先月28日、公開された。
>文書は英国立公文書館が管理していたものを韓国の国家記録院が収集し、2010年から保管してきたものだ。
>SISの極東支部が作成し、本国に送った1923年8月の報告書は、義烈団が約2000人のメンバーで構成される朝鮮人の秘密結社であり、
>朝鮮と日本にいる日本人官吏を暗殺することを目的にしていると記録している。
>報告書は「1カ月前、義烈団のメンバーの1人が中国・青島にいるドイツ人の作った爆弾160個を保有していたが、
>うち100個が朝鮮に運び込まれた。現在約50人余りのメンバーが東京で活動中だ」などと詳細に記述している。
民団の資料による在日韓国・朝鮮人 年度別人口推移 http://www.mindan.org/shokai/toukei.html
1920年 30,189人
1921年 38,651人
1922年 59,722人
1923年 80,415人
(関東大震災発生)
1924年 118,152人
1925年 129,870人
大量に虐殺されたはずなのに、どうして増える朝鮮人?
むしろ約1.5倍というありえないほどの驚異の増加率・・・。
あれっ虐殺なんてされたら普通減るだろ?
何で増えてんの?
噂とか聞いて逃げないの?逆に増えるの?
http://www.lib.shimane-u.ac.jp/kiyo/a002/0015/h001.pdf
関東大震災で大虐殺が起きた1923年から、
その翌年に8万人から11万8000人に内地の在住者が増えた当時の朝鮮人って大馬鹿だねw
「三日朝二人づれの鮮人が井戸に猫入らずを投入せんとする現場 を警戒員が発見して直ちに逮捕した」(「東京日日新聞」)
@@飲料水へ毒 あべこべに飲まされて悶死
九月三日午前九時頃本所菊川町十字路附近
自称李王源 毒薬亜秕酸七八匁を懐中し 本所区徳右衛門町菊川町方面焼跡残存者が
唯一の飲料水供給所たる菊川町の水道消防栓附近を徘徊中群衆に捕われたが、亜秕酸を食塩と強弁し強いて嚥下せしめられて忽ち悶死した 、
>亜砒酸(三酸化二ヒ素)は、「石見銀山ねずみ捕り」と呼ばれた伝統的な殺鼠剤である。
>「毒薬投入の目的を有したりと認むべき」というのは一方的な決めつけに過ぎず、
>群衆に見咎められた朝鮮人が、たまたま所持していた殺鼠剤を無理やり飲まされて殺されたというのが事件の実相だろう。
↑チョンコが井戸に毒を入れたも、根も葉もない話じゃない
早川徳次(シャープ創業者)
当時、亀戸のほうに第三工場にするつもりで五軒の長屋を買ってあり、四軒は空屋にしてあった。そこが無事なのがわかって、
私たちは移った。日が経つにつれて離散していた従業員たちが続々やってきて、いちじは七十人ほどの大家族になってしまった。
朝鮮人の従業員の一人の李さんも訪ねてきた。そこへ例の朝鮮人に関する流言飛語である。町内の連中がきて、
「朝鮮人はいますか。いたら殺してしまう」
という。私は「いません」といってウソをついた。何も悪いことをしていない人をつき出すわけにはいかない。
しかし、かくまっているとただではおかないという風評が伝わってきて家族の者たちが動揺し出した。私は固く口止めをして、
李さんを押し入れの中にかくまい、三度の食事を自分で運んだ。
(中略)
町で実際に朝鮮人が殺されるところを目撃したこともあった。歩きながら殺されていった。いきなり後ろから頭を割られ、
それでも歩いていて、ついに倒れると背中やお腹を金属の棒で突いているのである。こっちに力がないから止めることができず、
もし止めようとすればこちらが殺られてしまっていただろう。
(早川徳次「妻も子も事業も奪われて」『潮』1974年10月号)
解説◎
家電メーカー「シャープ」の創業者である早川徳次[1893‐1980]の証言である。早川は当時30歳。いわゆるシャープペンシ
ルを開発し、墨田区に工場をもって事業を展開していたが、関東大震災で全焼した。震災で二人の子どもを失い、
2年後には妻も病で亡くなった。早川は震災後、大阪に移り、新事業に乗り出して家電メーカーとしてのシャープを発展させていった。
ちなみに早川がかくまった「李さん」はその後、朝鮮に帰って弁護士になったそうである。
「昭和十五年、私の満州の店で、劇的な再会をしたことがある」と早川は書いている。
〈第32回在日朝鮮学生「コッソンイ」作文コンクールから〉 高級部 作文部門 1等作品
★横網公園を訪ねて 先生は、まず資料を配りながら、僕たちに学習してみろとおっしゃった。
資料には、関東大震災の被害状況といろんな事実が書かれていた。
もっとも衝撃的だったのは、朝鮮人大虐殺に関するできごとだった。
この資料によると、地震によって混乱状態に陥った国民の意識を他に向けるために、流言飛語が流されたというのだ
それも他ではない、日本の軍や官憲の手によってだ。
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こした」「朝鮮人が家に火をつけた」
このようなデマを信じた日本人らは、自警団を組み、朝鮮人を片っ端から殺した。
〈第32回在日朝鮮学生「コッソンイ」作文コンクールから〉 中級部1年 作文部門 1等作品
★ウェハルモニ ぼくは歴史に興味があります。
歴史と言えば、高句麗を建国した東明王や、亀甲船を造り日本を負かした李舜臣将軍、
伊藤博文を暗殺した安重根、朝鮮史は習えば習うほど楽しいです。
ぼくは、「朝鮮の名人」という本が大好きで、よく読みます。
だけど、歴史を習うたび、1910年に日本に国を奪われた、あの時がいつもぼくの胸を刺します。
あの時、朝鮮民族がどれだけの苦しみを味わったか、日本に残酷なことを強いられたのか、 どれだけ多くの朝鮮人が血を流したのか、朝鮮人の姓と名を奪われ、
美しい朝鮮語まで奪われたのかと思うと、悔しさを押え切れません。
↑チョン校生の作文 密入国してきてお情けで住まわせてもらってる身で、こうやって日本語で ふざけた作文かいて日本人への敵意を育ててる…
強制送還の再開(山口組の直系傘下組長の4割が在日朝鮮人)と、第2次帰還運動の開始、立憲民主党の撲滅が急務です
併せて読みたい
かくされていた歴史―関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件 (1974年) 関東大震災50周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会
↑これは珍本である。しかも内容豊富。偏りがない。古本屋でも滅多にみかけない。読みたければ図書館に行くことを勧める。
★片柳事件(1923年9月4日)…埼玉県さいたま市見沼区染谷(片柳村)で、自警団が日本刀や槍で、24歳の朝鮮人(姜大興)を虐殺した事件。
★神保原事件(1923年9月4日)…埼玉県上里町(神保原村)で、千名の地元民が、粗朶や竹や小刀などで朝鮮人42名を虐殺した事件。
★本庄事件(1923年9月4日)…埼玉県本庄市で、自警団や住民三千~四千人が暴徒化し、日本刀、長槍、仕込杖、木刀、金熊手などで、
本庄警察署(今の本庄市立歴史民俗資料館)で朝鮮人86名、付近で朝鮮人15名前後が虐殺され、陸軍第9師団歩兵第7連隊などに鎮圧された事件。
★熊谷事件(1923年9月4日)…埼玉県熊谷市で、自警団などが日本刀、手斧などで、埼玉県熊谷市久下の久下神社周辺で6~8名、
熊谷市曙町の熊谷駅東側すぐの踏切付近で20~30名、熊谷寺や熊谷警察署前や熊谷市内で数十名、計70~80名の朝鮮人を虐殺した事件。
↑被害者数は相も変わらず被害者視点でもってるが(笑)、これらの事件が起きたことは事実であろう。私から言えるのは、そんな恐ろしい日本国から一刻も 早く荷物をまとめて出ていくべきだな。