「弥生人の先祖は首狩りをしていた?」 稲作儀礼と首狩り 1995 鳥越 憲三郎 (著) 雄山閣出版

綿密な聞取り調査による、首狩りの実際の生々しい報告と考察。日本人の先祖・古代倭族の儀式「人頭祭」と、1950年代まで行なわれた雲南ワ族の稲作儀礼としての首狩り、さらに、わが国における人間犠牲を比較検証し、その意味を明らかにする。


民俗学者としての著者の後半生の最大の業績としては、やはり「倭族」を提唱したことがあげられるだろう。
倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」とのこと。

倭人は江南・雲南からきた……下駄があり、赤飯があり、ちまきがあり、鳥居があり、納豆がある。とても無関係とはおもえないと…。

 

中国雲南省の石塞山遺跡のことはご存じの方も多いと思う。
ここから蛇の持ち手の金印がでている(紀元前109年作成)。
前漢武帝が石塞山遺跡のテン王に下賜したものらしい。
かの志賀島からでた金印(紀元後50年くらい?)が同じく蛇の持ち手を持っていることから、志賀島の金印の真実性を高めたという、いわくつきの一品である。

 

ここからからでた貯貝器の上蓋のすさまじい光景に注目した著者はさすがとしか言えない。殺人祭銅柱貯貝器。そこには人間犠牲のすさまじい光景が精緻に再現されている。
細かいのでかなり目を凝らさなければ何を表現しているのかわからない。
複数ある。精緻な青銅製のモデルである。ちょうど、ジオラマで祭りを再現しているかたちだ。
日本人が現地へ行ってのドキュメンタリーを何本か見たが(雲南省博物館を訪ねる)、なぜか皆その点には触れていなかったし、なにより、中国の研究者たちもその点には触れたがらないという。

なぜ、このようなことが行われたのか。その凄まじい光景を当時の貨幣(タカラガイ)を入れる容器の上蓋に彼らは何を考えて残したのか。
それは播種に先立って人間を犠牲として殺し、殺された人間は農耕神としての蛇神に化身して、その1年間、穀物の順調な成長と豊かな収穫をもたらす神であると信じられていたからである。

 

ところが雲南省西南部に住むワ族の間では、ごく最近まで農耕儀礼としての首狩りが行われていた。著者は、1989年から1993年にかけて3度にわたり、合計3か月に渡ってその地へ調査旅行を敢行した。

 

今も残る首狩りの習俗。92ページ
「まず首狩りに行く5人の若者が選ばれる。選定の条件は20歳から2,23歳の独身の男性であること。人選が決まると、呪術者が鶏の脚骨で卦を見る。そして出発する吉日と方向、さらに組長に予定されている者の可否を占う。
彼らが村を出ると、家に残る妻があると、妻には機織りや野良仕事などいっさいの労働が禁じられる。部屋の中にいても何もせず、話もしないでただ座っている。また昼間に眠くなっても寝てはいけない。このことは家族も一緒である。もし禁を犯すと、首狩りに行った夫が転んだり何か不幸が生じるといわれる。

首狩りに出発するとき、彼らが持参するのは刀・槍・銃のほか、数日分の食料とワ族特有の酒である。
また刀は鋭利なもので、長さ85センチ前後、手に持つとずっしりと重かった」

 

だからこの凄惨な人間犠牲の行動様式も我が国に渡来したのではないかという疑問から、後半の140ページあたりから我が国の故事に引き比べての考察が始まる。

日本書紀」から、仁徳天皇の条。茨田の堤(まんだ)の人柱伝説。
「今昔物語」(巻26)、吉備の国、中山神社の人身御供の話。美濃の国の人身御供の話。

明治以降、日本にはたして人身御供(いけにえ)があったのか、なかったのかは様々議論があったようだ。民俗学者柳田国男は人身御供あった説に反対の立場であった。

実際、大正時代に関東大震災の影響で皇居の2重櫓を掘り返したところ、中から頭に古銭が載せられた16体の白骨がでてきて大騒ぎにもなったらしい。

 

旅人を捕えて生贄にする事例は、説話としてでなく実際に行われていた。その一つは尾張国(愛知県)の一の宮国府宮大國魂神社)に伝えられていた儺追(なおい)神事である。
捕えた旅人を犠牲にして殺しはしなかったという。
その身代わりとして作ったわら人形をまな板の上に乗せ、旅人はその横に立たせて、料理する真似事が行われたと。
これに似た祭式の祭りは全国にあるようだ。
疑似いけにえであろう、どう考えてもこれは。
とうとうそんな祭りにも尾張藩が介入して旅人を捕えることはやめさせようとする。
それは当たり前の判断に思える。誰も怖がって歩けなくなる。すべての交通が途絶え日常生活に支障をきたすから。

 

人身御供は決して伝説ではなく、歴史的事実として当たり前に行われていた。
しかも生贄として殺される人間は死してのち、神として復活し、その年の豊作をもたらすものとして信じられていたのである。
それは稲作農耕民として倭族に共通してみられる習俗であった。

 

併せて読みたい 

「日本人の生活文化史 2 箸と俎」 鳥越憲三郎 毎日新聞社 1980

[神、人を喰う・人身御供の民俗学」 六車由実 2003 新曜社 ←国府宮大國魂神社)に伝えられている儺追(なおい)の神事をさらに追及した好著。