アメリカ・インディアン悲史 (朝日選書 21) 1974/1/1藤永 茂 (著)

北米インディアンの悲史をたどることは、そのまま「アメリカ」の本質を、くもりのない目で見さだめることにほかならぬ。アメリカという国に好意を持つか反感を持つかなどという、生ぬるいことではない。「アメリカ」は果して可能か――


古い本だが1冊100円で古本屋から買ってきた。
これが凄い本だった。
時系列で淡々とアメリカインディアンが白人から弾圧を受け、「滅んで」いったかが、客観的に書かれている。
著者は、カナダ・アルバータ大学の核物理学の教授。


有名な話だが、最初にアメリカ大陸にやってきた白人種が厳しい冬を越せず、大半が飢え死にしていく状況にあって救いの手を差し伸べたのが、まさに白人種からいうところのアメリカインディアンたちであった。

サンクス・ギビングデイ(感謝祭)というのはこれを、生き残ったことを感謝する、インディアンから貰った七面鳥を食べるという風習。

 

だが、ヨーロッパから食いはぐれてアメリカにやってきた白人種はその根源のアメリカインディアンに対する感謝を忘れている。
笑止千万である。
感謝どころか、差別意識まるだしで、インディアンたちを弾圧・殲滅する行為に及ぶ。


チェロキー・ネーションというものを初めて知った。
第7代大統領、アンドリュー・ジャクソンの時代に(1800年~1845年あたり)、ジョン・ロス(インディアンと白人の混血らしい)という不世出のリーダーに恵まれ、ジョージア州からアラバマ州にかけての広大な面積に、インディアン自治区を築いて、白人からの嫉妬心をかったという。

それほど、何もかもうまくいって、土地から金が取れ初めて、白人の嫉妬心はピークに達したという。

50年にもわたる、血みどろの戦いの結果、インディアンたちは土地を追い出され、遠い新しい居住区に歩いて移転させられる。

このときのことが、有名な「涙の踏み分け道 Trail of the Tears」であった。

下関から仙台に歩いていくようなもので、当時は、道もなく、途中で脱落するインディアンが続出したという。

 

 >ロング・ウオーク・オブ・ナバホwiki 
 >18日以上かかった500kmの徒歩の長旅で、少なくとも200名が死んだ。この強制連行の途上で数百人の死者が出たが、
そのほとんどが子供や老人だった。 
>病人や歩けなくなった老人は、道端に放置されたのである。 


私はすぐこれを思い出した。 ↓

 

ああ、GHQが原爆投下による虐殺を相殺・相対化する為に持ち出した「バターン死の行進」な
 
バターン死の行進ユダヤ人団体が文春に抗議 (読売新聞2006年1月14日) 

  【ロサンゼルス=古沢由紀子】日本軍が捕虜米兵らを炎天下歩かせた「バターン死の行進」に ついての月刊「文芸春秋」の記事が「歴史を誤って伝えるものだ」として、ユダヤ人人権団体 「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は13日、当地で抗議の記者会見を開き、文春側に元捕虜らへの謝罪を求めた。 
  記事は、同誌の昨年12月号に掲載された「『バターン死の行進』女一人で踏破」。ジャーナリスト  の笹幸恵さんが、フィリピンで行進のルートを4日間かけてたどり、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と報告。「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた。 
   
 記事は、同誌の昨年12月号に掲載された「『バターン死の行進』女一人で踏破」。ジャーナリスト  の笹幸恵さんが、フィリピンで行進のルートを4日間かけてたどり、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と報告。「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた。 

 

笑… 


この時、日本軍は後方からアメリカ軍人のために、なけなしのトラックや食料など送ってるんだよ。 
 歩行が困難とされた人たちはトラックなどで移送、 全員を乗せるトラックなんて日本軍は持ってなくて仕方なく歩かせた。その距離も最小になるように鉄道など使って移送出来るルートを取ったんだよな。 

 

ちなみに、スターリングラードでは捕虜になったドイツ軍人はモスクワまで歩かされて 
 そのうえ、赤の広場で住民が見守る中、靴下もなく裸足で行進させられ、その後、捕虜生活で戦後、ドイツに帰れてたのが 6000人ほど、捕虜になったのは9万人位、こっちは誰も問題にしない。

 日本軍は人道的な行為をしてたかわかるが、死の行進なんて言われちゃうし、 
 本当の死の行進にはみんなだんまりだしな。 


ちなみに、バターンの捕虜の交換のために、アメリカ政府は南米に”帰化した日本人”と 
”南米で生まれた二世”を、南米各国政府に圧力をかけて”財産没収の上収容所に入れ”、
 
アメリカの捕虜であるとして、日本政府に交渉し、アホな日本政府はそれに応じて、
 
バターンの捕虜を引き渡し、南米からの日系人を日本に強制送還させました。 

クリントン政権のときになって、ようやくアメリカ政府はその蛮行を公式に謝罪している


凶暴きわまりない白人種だが、シナ人やちょうせんじんに比べると、数千倍まともな人種である。
まず、日本にたくさん来るようになったが、各地で問題を起こさない。
遵法順守である。
日本を見たい、日本をもっと知りたいという好奇心にあふれている。


もっとも唾棄すべきなのは、シナ共産党に感化されたシナ人と、日本に居座って1兆円を超える援助をうけ、ぬくぬくと日本を批判しつづける罪日ちょうせんじん集団、そしてその取り巻きの日本人バカ左翼である。


「罪日は被害者ヅラをしたコウモリ」「軍隊へ行き、精神的再教育が必要」 ソウル出身 パクさん 明治大学留学生
http://livedoor.blogimg.jp/hoshusokho/imgs/d/1/d17807bf.jpg 

罪日を召喚するメリット 
 ・資産没収 
・数十万の兵隊、強制労働者の確保 
・支持率回復 
・日本との関係改善 
 

デメリット  ・無し 

 これ魔法のカード

 

併せて読みたい

アメリカ史―隔離区からの風の証言 (ちくま文庫) 1989/豊浦 志朗 (船戸与一)(著)

アメリカ合衆国は、果たして自由と民主主義の国なのか?アメリカインディアン居留区・ブラックパワーの渦中に自ら飛び込み、叛史の担い手たちとともに行動しながら「自由の国」アメリカの見えざる暴力と虐殺の事実とその構造をあばきだす。現代史の同伴者たらんとする著者の、フロンティアスピリット神話を撃つ戦慄のルポルタージュ


日系米人第一号―アメリカ彦蔵と呼ばれた男 (現代教養文庫 1143) 1985/中川 努 (著)社会思想社

嘉永三年、十三歳の彦太郎(のちの彦蔵)は船乗りとして初航海で破船漂流する。アメリカ船に救助された彦蔵らは、鎖国政策により帰国を阻まれ、やむなく渡米する。多くの米国人の知己を得た彦蔵は、洗礼を受け米国に帰化。そして遂に通訳として九年ぶりに故国に帰還し、日米外交の前線に立つ──。

不幸な漂流者は後世に名を残すこともなかったが、13歳で漂流者となった船乗りの子、彦太郎(後の彦蔵)はその幸運と本人の努力の甲斐もあってアメリカ人に大切にされました。三人のアメリカ大統領と面会したり、南北戦争に遭遇したり、戊辰戦争でグラバーとともに活動したりしている。

 

アメリカについて辛辣なことも書いてきたが、こういう厚遇もかつてあったということは記憶にとどめて置きたい。