「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。次は奴佳鞮と曰ふ。七万余戸ばかり。」奴佳鞮 なかて? ぬかて?ズバリ これが中臣氏ではないか? 豊日別宮 女神信仰と邪馬台国 田中了一著・2000年 自費出版

福岡県行橋市にある豊日別宮の近くに住む田中了一氏が、これに基づいて4冊の本を書きあげている。見事な推察だ。取り上げてみたい。

 

古事記日本書紀の編纂が行われた頃の編纂側の中臣氏や藤原氏邪馬台国の位置と、女王卑弥呼のお墓がある場所までも正確に知っていたことは確かであります。」
「昭和47年、福岡県行橋市大字草場(現、南泉7丁目)に鎮座している、官幣大神・豊日別宮より、歴史的に名高い古代大和の巨大豪族、大伴氏の古文書と共に、神官・大伴氏系図が発見された。」
「官幣大神宮から発見された古文書によると、最祖神官・神牟根奈里(コウムネナリ)という名がみえている」
「この人物は、6世紀29代欽明天皇(540年即位)時代、豊前国の阿賀波多村におかれていた社務所にて、神事を司っていた。」

 

天孫邪馬台国に降った : 豊日別宮 田中了一/著  2008 自費出版
高天原と日本誕生を説く : 日本神道は大伴氏が開いた 田中了一 著 1996 自費出版
豊日別宮 天孫邪馬台国に降った : 神楽の源流を発見 田中了一 著 2008 自費出版

 

「……しかもこの地域は中臣郷であり、祭神官を司っていた中臣氏にふさわしい祓郷村や、祓川があり、中臣氏に神事のありかたは、祓うということをもちいていた。また伊勢斎宮の地に祓川があり、このことから欽明は斎宮を立て、天照大神を祀った御神体は中臣郷の祓川そばにある豊日別宮こそが、伊勢の源神であり、神鏡に魂を入れ御神体として運ばれ、斎宮の祓川は源神の聖地に流れる祓川にちなんだものとみられる。」

 

10.邪馬台国    
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
  官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。
官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。
七万戸ばかりである。

 

豊後国風土記(8世紀前半)にも豊前仲津郡中臣村とあり、倭名類聚抄(931年 - 938年)にも中臣郷とある。
出身地が鹿島だの能勢だいうのも彼らの攪乱工作ではないだろうか。
中臣氏は、ここに、九州北東部に確かにいて、邪馬台国の高級官吏だったのではないか。

 

ともあれ、藤原氏の前身となる中臣氏は、大化の改新以前において、少なくとも天皇の代行として国政の中枢に参与できるような家柄ではなかったということだけははっきりと断定することができる。
その点は、「公卿補任」を参照すれば歴然としている。
随分と昔のことだからはっきりとした証拠があるわけではないが、何らかの形で、「系図買い」、家系詐称があったのではないかと思っている。

 

官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。

4番目の官職だったというところがミソだ。
まったくの成り上がり者ではむろんない。
神と人(卑弥呼?)との、中継ぎ役としての、中臣氏。
対馬壱岐に発する占いのエキスパートでもあったろう。

そこまで考えると、この4番目のポジションにいた氏族であったというのが、成り上がるには絶妙であったとはいえないだろうか。
たとえはあれだが、明治維新時、中間という微妙なポジションにいた、つかり村の伊藤俊介こと伊藤博文が成り上がっていったことを想起させる。

 

併せて読みたい
藤原不比等1997/3/1いき 一郎 (著) 三一書房
神々の体系 続 上山春平/著 中央公論社1981中公新書 394
元・特攻隊隊員の京都大学哲学教師の、藤原レジーム(藤原氏独裁体制)解明の、批判の嚆矢である。日本人が戦後書いた中で、ベストスリーに入る著書だ。

 

邪馬台国の研究」(重松明久)昭和44年刊 白陵社
「神代帝都考」狭間畏三 (著) 昭39。明治32年版の再刊。
豊前王朝―大和朝廷の前身 2004/2/1大芝 英雄 (著) 同時代社