(討つ相手は)家康様とばかり思っておりました 【本城惣右衛門覚書】天理図書館報、『ビブリア NO.57 昭和49年6月』所収

今回は【本城惣右衛門覚書】を取り上げたい。
本能寺の変の現場にいた明智光秀配下の武士が残した唯一の記録として有名な「本城惣右衛門覚書」。惣右衛門の晩年の回想録(聞き書き)。
惣右衛門は丹波地侍で、丹波攻略後は光秀に従った。覚書は、本能寺の変から58年後の寛永17年(1640年)に書かれ、惣右衛門は当時80~90歳ほどの高齢期だったとみられる。もともとこの資料は昭和の初年に古本収集家がさる人物(姿三四郎の原作者だという説もある)から買い取ったとされ、公開され、世評が高まったものである。

 

あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、ほんのふ寺へ我等よりさきへはい入候などゝいふ人候ハゞ、それハミなうそにて候ハん、と存候。

明智(光秀)が謀反し、(織田)信長様に腹を召させた時、本能寺に我等より先に入ったという人がいたら、それは全て嘘であろとうと思います。

 

其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、ゆめともしり不申候。

その理由は、信長様に腹を召させようとするとは、夢にも知りませんでした。
山崎(京都府乙訓郡)の方に向かおうとしておりましたが、意外にも、京へ(向かう)との指示がありました。
我等は、その頃、(徳川)家康様が御上洛中とのことでしたので、(討つ相手は)家康様とばかり思っておりました。
本能寺がどこにあるかも知りませんでした。

本道に出たところで、端のところに人が一人いましたので、すぐにその首を取りました。それから(本能寺の)中に入りましたが、門は開いていて、鼠でさえもいない様子でした。取った首を持って中に入りました。

そこ(本堂)で又首を一つ取りました。その者は、一人で奥の間から、帯もせずに、刀を抜き、浅黄色の帷子を着て出て来ました。
その頃には、既に多くの味方が攻め入っておりました。
それを見て、敵は崩れました。我等は吊ってある蚊帳の陰に隠れ、その者が出て来て、前を通り過ぎようとしたので、後ろから切りました。

 

いかがでしょうか。漂う静けさがこの資料の真実性を高めていると思います。
本能寺の変に関しては個人的には、「秀吉はいつ知ったか」(ちくま文庫) 山田風太郎が白眉です。

 明智光秀が敗死してから惣右衛門はどうしたのか? 
今度は秀吉の弟大和大納言秀長の手に属して、紀州一揆の征伐に向かい、また伊勢の亀山城の攻防に手柄を立てました。
城攻めの際、水はじきを用いて火を消し止めたとのこと。さらにその後、大坂の陣の際には藤堂家の分家方に属し徳川方となって闘いました。
また伏見の城攻めにも参加しました

振屋裕恒氏[本能寺・妙覚寺襲撃の謎]ttps://ksbookshelf.com/HJ/HonjyoSouemon.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E6%83%A3%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E8%A6%9A%E6%9B%B8