史実・大久保石見守長安 (1977年) 北島 藤次郎 (著) 鉄生堂

東京都八王子市に在住の北島 藤次郎氏による傑作評伝である。
大久保石見守長安は私も興味津々であって出版されてから数年後に古本屋でみつけすぐ買い求めたものである。
1977年時点でかなり高齢であったとのこと。

昭和11年に創業の日本初の車いす製造会社・株式会社ケイアイの創業者?

 

大久保長安の事跡をめぐり、取材はほぼ全国に渡っている。写真も豊富。
これが、大久保長安ものの嚆矢で、これ以降何冊か、読み物仕立ての、伝記小説のような本は出ているが、この本が傑出している。
どんな人物か知らない人も多いと思うので、ここはウィキペディアを借りてくる。


大久保 長安(おおくぼ ながやす/ちょうあん)/土屋 長安(つちや ながやす)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。甲斐武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。

生涯
出生
天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。

武田家臣時代
父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安は信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老・土屋昌続の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。
ただし一説では、武田勝頼から疎まれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

 

甲斐武田家が滅んだ後、長安徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正らと共に奉行(代官頭)に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。

 

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役となる。

慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である。
中山道に数百メートルごとに榎を植え(現在、板橋区に数本だけ現存)、通過者の目印にしたのも大久保長安とのこと。
あの青梅街道をはじめに引いたのも大久保長安である。

 

しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、中風のために死去した[4]。享年69。

長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安の嫡男・藤十郎(37歳)、次男・藤二郎(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・運十郎(29歳)、五男・藤五郎(27歳)、六男・権六郎(23歳)、七男・藤七郎(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)

ほとんど外様に近い立場から老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。


徳川幕府初頭の財政を文字通り一人で支えた人物である。
全国各地、彼がそこに赴き、掘れば出るという状態であった。
大久保長安は掘った後の金銀の処理をも巧みで、従来の灰吹き法ではなく、水銀流し法(アマルガム)を会得して実践したらしい。
労務の根本を変え、間歩(金銀を掘るところ)ごとに個別会計にして競争心をあおり、実績を上げたらしい。
水抜きや、人員配置にも巧みで、とにかくスーパーマンのような人物である。

検地に才能を発揮したの古く武田信玄に仕えていた頃からである。
かれの検地は独特で「大久保縄」といわれ、サイズ自体が違っていたと。

 

あと、そばが大好物であり、現地にはお抱えのそば打ちを同行させ、自分のためだけに打たせていたが、石見銀山の大森では,現地のそばがあまりにうまかったので、一般人にも解放せよと、そば店を開設させ、門前市をなす繁盛をさせるといったエピソードがある。

次の佐渡金山では、金や物資の運搬のために石見の漁師40家族を佐渡へ引っ越させるといったことをやっている。

 

大久保長安がとくに凄いと思うのは、猿楽師の出身であることを隠さないどころか、各地の金産地で自ら面をかぶり舞っていたことだ。
石見銀山の城上神社へ奉納された能面3面が残っている。北島氏の本に、その貴重な写真が掲載されているが、保存状態がいいせいもあるが見事なものである。
伊豆の金山奉行として赴任した際は、増産を願って各所のお宮で能興行を実施。地元の人にも能を舞わせ、いまでもそれは引き継がれているとのこと。

 

八王子市・浅川の脇に大久保長安がつくった石見土手がある。
その脇を入っていくと住宅地の中に静教保育園がある。
今ではもうすっかり住宅地だが、むかしは大きな塚があり、けやきの大木が何本も生い茂って薄気味の悪い場所であったとのこと。

この園庭の東南の片隅に高さ1メートルほどの石碑が、場違いな感じで建っている。
これがじつは、(大久保長安事件)で不正蓄財を疑われて、少し離れたところで自害した長安の嫡男・藤十郎(37歳)の墓だと伝えられている。
某年某月某日に、保育園関係者に声をかけ、中に入りお参りさせてもらいました。


併せて読みたい

村上直「大久保石見守長安の研究覚書(1)~(5)」『信濃』第19巻1~3,5,6号。
藤井讓治 編『近世前期政治的主要人物の居所と行動』京都大学人文科学研究所、1994年。