忍びの者 その正体 ; 忍者の民俗を追って 2021/ 筒井功 (著) 河出書房新社 忍者の実態のリアリズム。実像を追う。

北条配下の風魔一党、猿引・植田次兵衞、伊賀・甲賀の単郭方形城郭から、伊達氏の黒脛巾組と会津摺上原の合戦。コラム、図版多数の実証研究。

 

高知県幡多郡黒潮町加持(かもち)字猿飼ーー


土佐一条氏が居城を構えていた中村の市街から北東へ10キロほどに、加持という村があるという。加持は「万葉集古義」などで知られる幕末の国学者・鹿持雅澄の名字の地で、雅澄は土佐一条氏の重臣であった。

 

応仁の乱のとき、前関白・一条教房に従い京都から土佐に下向してきたといわれる。
加持は加持川沿いの本村、田村、小川の3地区に大別されるがそのどれからも1.5キロばかり離れた北東部の山すそにささやかな集落があり、そこが猿飼だと。
猿回しの民俗を調べていた著者はそこで驚くべき見聞を得る。

 

長宗我部が台頭する戦国の土佐。土佐一条氏に使えた入江左近という人物がいた。
一条兼定公は当時、現宇和島沖の戸島という島に潜伏していた。
その一条兼定公の首を切ったのが入江左近の家来の猿回しの植田治兵衛だというのだ。
この事実を著者は、ルイスフロイスの「日本史」、残っている資料から実証している。

この話、あまりにも凄いと感じたがアマゾンレビューにも書き込みがなく、寂しく感じた次第。

 

伊賀・甲賀の単郭方形城郭。
これは初めて知った。おもしろい!!!

滋賀県立大学教授の中井均氏の解説が、短いがいっそう面白い。
弥生時代の環濠がここまで進化したというべきか。

 

林立する方形単郭の城郭群
https://www.keibun.co.jp/saveimg/kakehashi/0000000201/pdf_sub_3561_20161222143108.pdf

なかでも甲賀郡では、300もの城館が築かれています。なぜ、甲賀郡にこれほどの城館が築かれたのでしょう。
まさに、甲賀郡のような一村一城のような形態の小規模の村であっても、ひとつでも無視して中へ攻め入った場合、背後から攻められる可能があるため、どうしても、ひとつづつ落とさなければならないわけです。