杉原千畝と日本の外務省―杉原千畝はなぜ外務省を追われたか 1999/杉原 誠四郎 (著)大正出版 「日本の戦争開始を妨害したかった巨大な勢力が確実にいたと思う。」

第二次世界大戦時、日本通過のビザを発給してユダヤ避難民約六千人を救ったとされる杉原千畝が、外務省にどのように扱われたかを追究。戦後の外務省が戦争責任を隠し、歴史を偽造してきたという事実を明らかにする。

 

怒りと冷静さが同居する、なかなかの好著である。
10年前読んだ時には気が付かなかった部分、タイトルにある杉原千畝よりも、真珠湾攻撃の際の日本大使館の通告遅れ問題について中心に述べたい。

 

杉原氏の言及するところは、なぜ、開戦通告遅れという日本国、日本国民に対して申し開きのできない不始末をしでかした奥村勝蔵、井口貞夫のご両人をそろって出世させたのか。奥村勝蔵に至っては、昭和天皇マッカーサーの初会談に、通訳として同席させたのかというもの。

 

私も当初その事実を知ったときに怒りに震えたから、杉原氏の怒りはごもっともだし、日本国民に対して唾吐く鬼畜の所業だと思う。

「卑劣なだまし討ち(スニークアタック)」というその言葉と、米側は卑劣な無警告攻撃として憤激、リメンバー・パールハーバー!を合言葉に対日戦に立ち上がった。

この言葉は現在にも生きており、過日、関税にかかわる日米通商交渉においてもトランプ大統領が使ったように、日本人は卑怯でずる賢いとの認識が米国人に植え付けられてしまっている。
この原因は、当時、在ワシントン日本大使館勤務のキャリア外交官、井口貞夫参事官と奥村勝蔵一等書記官の職務怠慢により本省発信の最後通牒の暗号電報の復号、対米外交文書の整文、手交に遅延が生じ、攻撃後の手交にあったとされて来た。にも関わらず、両名は戦後ともに何等の処分も受けず、逆に外務事務次官へ栄達し、勲一等を受けている。
まさに訓令違反を理由として免職となったスギハラチウネと真逆な取り扱いを享受している。真珠湾無警告攻撃は、報復としての原爆投下の正当化の根拠のひとつとする米国人も多く、日本人もこの両外交官に対し憤懣やるかたない感情を持つものも少なからずある。

 

ただ、もっともっとさかのぼって悪事が隠されていないかという疑問がわいた。
誰も言わないが(ホント、現代史学者もこの問題にほとんど言及してない)、あの緊迫した時期に日本大使館の三等書記官・寺崎英成(マリコ・テラサキ・ミラーの父親)がブラジルに転勤というところがまずおかしい。

転勤のための送別会がワシントン市内の中華レストランで行われ、大使館員のすべてがそれに参加して開戦通告が遅れたという。
それでは、転勤の辞令を出した人間が一番怪しいと考えないのか不思議である。

 

そう考えると、吉田茂というのがひとつキモであると思える。
なぜそう言えるのかというと、繰り返すが、開戦通告遅れという日本国、日本国民に対して申し開きのできない不始末をしでかした奥村勝蔵、井口貞夫のご両人がそろって出世しているからである。この問題の発端(だと私は思ってる)日本大使館の三等書記官・寺崎英成(マリコ・テラサキ・ミラーの父親)もまた、大出世したといえる。

 

「……そのまま終戦をむかえた。1947年2月、宮内省御用掛(通訳)に任命され、昭和天皇マッカーサー元帥との会見の通訳を数回務めると共に、GHQ側と戦犯関係を含む情報を交換提供した。コの家族が寺崎の遺品(保管していた文書類)から、昭和天皇が側近・侍従などを相手に、帝国日本の事情や開戦に至るまで経緯などが、率直に語られた記録(昭和天皇独白録)が発見された」


出世させたのは吉田茂をはじめとする×××グループ(日本の参戦を喜ばない勢力)だと思う。
日本の戦争開始を妨害したかった巨大な勢力が確実にいたと思う。

 

ヨハンセングループとは?
「ヨハンセン」とは、彼らを監視していた軍部・憲兵隊当局の符丁(暗号)で、このグループの中心と目された吉田茂を意味し、「吉田反戦」(よしだはんせん)の略とされる。このグループは主旨・参加者などが明確な組織として存在していたわけではなく、それゆえ範囲も曖昧である。

吉田茂奉天総領事在任時代(1925年〜1927年)に満蒙分離など対中国強硬策を唱えるなど(対米英協調の枠内ではあったが)、必ずしも「反戦的」外交官ではなかったにもかかわらず、第二次世界大戦後、GHQから「穏健派」政治家として高く評価されていたのは、開戦以前の駐日アメリカ大使グルーとの親交のほか、ヨハンセングループ事件による逮捕が大きく作用していたと言われる。
なお、ヨハンセングループによる終戦工作の具体化は「近衛上奏文」作成への関与に止まっているのであり、戦後、吉田の反軍部的側面を強調する吉田支持者と、吉田(および近衛・牧野)らが米英と密通していた(実証のない「陰謀論」である)とする批判者の双方によって、その活動が実体よりも過度に誇張されている面も否定できない。

外務省退官(1939年)以降浪々の身であった吉田茂は、1941年12月の日米開戦以前から、「親英米派」として開戦の回避をはかり、開戦後も岳父の牧野伸顕(同じく親英米派の重臣の一人)や元首相の「コーゲン」[1]こと近衛文麿、外務次官時代の上司の「シーザー」こと幣原喜重郎や「ハリス」こと鳩山一郎らと連絡を取り、樺山愛輔(実業家)・原田熊雄(元・西園寺公望秘書)らとともに、東条内閣の倒閣運動や戦争の早期終結を目指す工作を進めていた(さらに米内光政らの海軍「穏健派」までそのネットワークはひろがっていたとされる)。しかし、当然このような動きは陸軍当局・憲兵隊からは反軍部工作(および米英への通牒工作)とみなされ、「ヨハンセングループ」という呼称で牧野・近衛らとともに厳重な監視を受けていた(当時、平河町の吉田本邸および大磯の別邸には男女3名のスパイが潜入し、諜報活動に従事していたが吉田はこれを察知していなかった)


林千勝氏には、近衛文麿なんかより、この問題を是非ともほじくって欲しい。

 

アマゾンレビューに秀逸なものがある。
「しかし, 在米日本大使館の当日の行動が適切であったのかと言う点については, 遺憾ながら, 従来の色々な言説を打ち消すには足らない. まず, 何故最終部(14部の)暗号解読への取り掛かりが遅れたのか. どうしてタイピストを準備しなかったのか. そして, 通告時間を13:00と指定されているのに, なぜ従わなかったのか. 最後の点については, 未完成であっても, 今後の交渉は打ち切るとの通告を口頭であっても行なうべきではなかったのかとの指摘もある. これらの点については触れられていない. この本に書かれている範囲での, 12月6日における野村大使の大使館員への指示には別段の緊張感は伺えない. 勿論, 開戦間際の緊張感は常にあったのだろうが, 日本側が持っていた緊張感は共有されていなかったようだ. 本来なら, 最終部の到着を待って外交文書を完成させるべく7日の人員配置への特別な指示があるべきであったろうが, 別段の指示がなかったことが当日の大使館員の出勤の遅れとして現れたようだ. 緊張感の途切れる魔の時間があったと言うことなのだろう.」

 

私も本書を読んだが、印象としては的外れな本だ。
開戦神話―対米通告はなぜ遅れたのか 2008/7/1井口 武夫 (著) 井口貞夫参事官の息子の弁明?の書。

 

井口武夫は開戦30分前に手交しても結果は同じと言っているが、1分前でも国際法上は適法な通告であるので、日本人は胸を張って適法性を主張すればよいが、無警告攻撃では永久に日本人は卑怯者のそしりを受け続けるであろう。
ホントこの部分に腹が立った。